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ハァーっと吐いた息が白くなる。アルゼンチンは真冬。少し暖かくなってきたが、1日の寒暖差が激しく、朝は氷点下を下回る日も。南米は冬でも暖かいだろう、なんて勝手な先入観で天気予報を調べずに来てしまった。バックパックの奥底には、出番を失ったノースリーブたちが眠っている。
大学生のころ、スペイン語の講義を2年間取っていた。ラグビーとの兼ね合いで実現できなかったが、一時は先生から提案されたスペイン・マラガへの留学も考えたくらいに興味を持った。しかし、それも10年前。培った知識は、使わなかったことによってほぼリセットされていた。
だが、スペイン語圏の方々に “Hablas Inglés?”(あなたは英語を話しますか?)と聞くのも、勝手な押し付けのようで申し訳ない。また、高確率で “Non!” と返されるので、できるだけスペイン語で話しかけようとトライする。すると向こうは「おおっ!」とオープンに話してくれるのだが、3回ラリーが続いたくらいからまったく会話についていけない。あるホステルで同部屋になったルーミーにそれを話すと「これまで南米でどう生き抜いてきたの?」と半ば呆れられた。
スポーツと生活が密接に絡み合うアルゼンチン。ブエノスアイレスに拠点を置く2大サッカークラブ、ボカ・ジュニアーズ(以下ボカ)とCAリーベル・プレート(以下リーベル)は国の象徴そのものだ。世界最古の日曜紙であるイギリスのThe Observerは「死ぬまでに見た方がいいスポーツイベント ベスト50」にこのダービーマッチ「スーペルクラシコ」を選んだ。
一般的にボカは労働者階級、リーベルは中層者階級のサポーターを中心に支持されると言われているが、街を歩けば関係ない。小さな子どもから大人、ご婦人、老紳士まで、チームのウェアやキャップなど何かを身につけている。街に出て、どちらかのエンブレムを見ない日はない。生活の中に常にスポーツがある。

スタジアムが対照的なのも興味深い。リーベルの「エスタディオ・モヌメンタル」(Estadio Monumental)の収容観客数は約8万5000人と巨大だ。フットボールの試合だけではなく、ミュージシャンのコンサートも開催されるため、近代的な仕様になっている。
対して、ボカのスタジアム「エスタディオ・アルベルト・J・アルマンド」(Estadio Alberto J. Armando)、通称「ラ・ボンボネーラ」は1940年に建設されたサッカー専門スタジアムだ。黄と青で統一されたスタジアムの客席には “La doce”(ラ ドセ:12番目)と呼ばれる熱狂的な応援から選手を保護するために、金網と防弾ガラスがびっしりと張られている。
何度も改築を繰り返しながら使われてきたスタジアムだけに、チームの文化が細部にまで濃厚に残る。年紀が入った地下通路の手すりまでもが青に塗られていた。収容人数は約6万人だが、ファンクラブの会員数はそれを超えていると言われる。ファンクラブの規模に対してあまりに小さいので、新スタジアムの建設案も浮上しているという。
一方、街ではラグビーの姿をあまり見ない。ブエノスアイレスのスポーツショップを20軒近く回った。どこもプーマスのジャージはないか、端の方に置いてあるか。そのどちらかで、少し寂しい。
アルゼンチンにラグビーをもたらしたのはイングランド、アイルランド、スコットランド系の移民だったとされている。だが、それがいつだったかを示す正確な記録は現存していない。アルゼンチンラグビー協会(UAR)によれば、イングランドで世界初のラグビー協会RFUができた2年後の1873年、ブエノスアイレス・クリケットクラブがラグビーの練習をしていたという形跡があったという。ラグビーは地域スポーツクラブの1部門として扱われているケースがアルゼンチンでは多く、テニスやホッケーなどと並んで編成される。
例えば、元アルゼンチン代表のニコラス・サンチェスがラグビーを始めたトゥクマンのクラブは 「トゥクマン・ローン・テニス・クラブ(Tucumán Lawn Tennis Club)」だ。これは、1915年にテニスクラブとして設立されたのち、1961年にラグビー部門が新設されたことによる。敷地には4面ほどのテニスコートの奥に、立派なスタンドに囲まれ、丁寧に手入れされた天然芝のラグビー場がある。

ある日曜日、別のローカルクラブに試合を見に行った。アルミニ(Asociación Alumni) vs SIC(San Isidro Club)の一戦だった。アルミニはパブロ・マテーラの出身クラブとして知られ、SICはブエノスアイレスを中心としたクラブリーグであるURBA(Unión de Rugby de Buenos Aires)で最多10回の優勝を誇り、90年の伝統を持つチームだ。
アルゼンチン国内にプロリーグはなく、すべてアマチュアクラブになる。そのカルチャーで不思議なのは、同門というだけでまるで家族のような強い繋がりが育まれているところだ。試合後、アルミニの関係者に話を聞いた。
「アルゼンチンラグビーは、とても狭いコミュニティです。今日の試合にも『ただ純粋にラグビーを見に来た』という外部のファンはほぼいません。ほとんどが、両クラブの卒業生かその家族です。それもあって、クラブには大きな情熱が宿っていて、それが共有されています。私も8歳からこのクラブでラグビーを始めて、数年前まではフォワードコーチでした。いまは自分の子どもがプレーしています」
【Feel in Argentina/ Vol.1】でも触れたが、どのクラブにも立派なクラブハウスがある。この日は大きな牛肉やチョリソーを炭火で焼いた「アサード」を提供するシェフたちの姿があった。午前中の試合を終えた子どもたちが、家族や親子で食事を楽しんでいた。1軍の試合が始まる夕方ごろには、高校生くらいの選手たちがサイドスタンドで歌い、飛び跳ねていた。ほぼ全ての観客の手にはマテ茶を飲むための容器「マテ」と、チョリソーをパンに挟んだ国民的サンドイッチ「チョリパン」。選手の母親らしきご婦人がいる隣の方から少し煙たい匂いがするなと思うと、そちらの手にはなんと煙草が…! 各々が好きなように、試合を見つめていた。

別日にはイングランドの取材で、ブエノスアイレスの州都ラ・プラタにあるクラブ、サン・ルイス(San Luis)のグラウンドに行った。その日は格段に寒く、気温は0度近く。しかし、念を押しすぎて公開時間の1時間以上も早く着いてしまった。外で一人凍えていると、リエゾンを担っているアルゼンチン協会の関係者に声をかけられた。
案内された先にあったクラブハウスでは、サン・ルイスの関係者たちが暖をとっていた。「日本から来たのか! トモダチ! 寒いだろう!」すぐに温かいコーヒーを淹れてくれた。アルゼンチンのコーヒーは、砂糖を入れるのがこだわり。温かさと甘さが凍え切った体に入ってくるのが心地よかった。
「私たちは全員、このクラブのOBです。今では会計士だったり、弁護士だったり、それぞれの仕事をしながらクラブの運営に携わっています」
祖父や父がラグビーをしていて、その子どもがまた同じクラブでラグビーを始める。自分が育ったクラブを愛しているから、その循環は生まれる。経済問題を抱える国でラグビーが残り続けてきたのは、こうして情熱の灯火が受け継がれてきたからだ。

南米だからか、スペイン語圏だからか、理由はわからないが、こちらで1日1回は言われる言葉がある。
“¡Amigo! My friend.”(あなたは私の友達)
買い物、タクシー、カフェ、至る所で。見知らぬ客引きや売り子にも初見で言われる。だが、ラグビー人の “¡Amigo!” は、それらとはまったく異なる。
あぁ、ここにもラグビーがある。その安堵だけで、旅の緊張で固まった心はゆっくりと溶かされてゆく。
◆プロフィール
中矢 健太/なかや・けんた
1997年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学文学部新聞学科卒。ラグビーは8歳からはじめた。ポジションはSO・CTB。在阪テレビ局での勤務と上智大学ラグビー部コーチを経て、現在はスポーツライター、コーチとして活動。世界中のラグビークラブを回りながら、ライティング・コーチングの知見を広げている。