![【Just 30 minutes】カフェ経営、中国ラグビー支援も。「日本は最高だった。最後は自分のクラブに戻ると決めていた」。ニコラス・サンチェス[元アルゼンチン代表]](https://www.justrugby.jp/cms/wp-content/uploads/2025/08/5eb90fe3a3fb986a3127f0f628103898.jpg)
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独立宣言がなされた街、アルゼンチンはサン・ミゲル・トゥクマン。1816年7月9日、街の中心部にある邸宅「カサ・イストリカ」でスペインからの独立が宣言された。現在は博物館となっており、独立宣言書の写しも展示されている。
街を歩けば、多くのアルゼンチン国旗が目に入る。人気アニメ「母をたずねて三千里」では、主人公のマルコが母アンナと再会を果たす場所がこのトゥクマンとなっている。
そしてここは、ニコラス・サンチェスの故郷でもある。

アルゼンチン代表、プーマスとしての最多得点記録を持つ彼は、8歳からこの街のスポーツクラブ「トゥクマン・ローン・テニス・クラブ(Tucumán Lawn Tennis Club)」でラグビーと出会った。のちにボルドーやトゥーロン、スタッドフランセ、CAブリーブとフランスクラブを渡り歩いた後、2023年のワールドカップ後に東京サントリーサンゴリアスへ電撃加入した。
情熱の国の、情熱の男。2023年ワールドカップの3位決定戦でイングランドに敗れた後は、涙を流しながら敵味方関係なく抱擁する姿が印象的だった。
サンゴリアスでは1シーズンを過ごした後に母国へ帰国。自身が育ったトゥクマンのクラブに戻った。
そして、アルゼンチンの全国クラブ選手権で初優勝へと導く。
「36歳のスタンドオフはその右足で試合の主導権を握るプレーを見せ、戦略的なキックで相手陣内でのプレーを展開、得点にも貢献した。4つのペナルティキック、ドロップゴール、そしてコンバージョンキックで、チームの22得点中17得点を挙げた」(LA NACION)
そしてこの試合を最後に、スパイクを脱いだ。
自身が指定したカフェに少し早く現れた彼は、ピッチの姿とは対照的に穏やかな雰囲気を纏っていた。はじめに日本のことを聞くと、表情が和らいだ。
「日本は言葉、食事、文化、すべてが異なります。当初は、私や家族にとって日本は難しい経験になるかもしれないと思っていました。でも、到着してみると、すべてが想像以上でした。クラブは生活面でも力強くサポートしてくれましたし、子どもたちが初めて学校に通った日は、クラスメイトたちがスペイン語で話しかけてくれたことに驚きました。日本食は牛丼が好きで…すき家、吉野家!(笑) 吉野家はいま仕事で頻繁に行く中国にもあるので、必ず立ち寄ります。すべてが素晴らしい体験で、帰国する頃には『もっとここにいたい』と家族全員が思っていました」

いまでも覚えている日本語はありますか。
すると、サンチェスの口からは驚くほどスラスラ出てくる。
「『左、右』。『鶏、牛肉』。『赤ワインをください』。『トイレットペーパーはどこですか?』。『若葉台までお願いします(笑)』。子どもたちが学校でひらがなや漢字を習っていたので、私も一緒に勉強しました」
サンゴリアスでの試合出場は、わずか5試合にとどまった。プレータイムを渇望していたサンチェスにとっては苦しい時間だった。いくつか怪我を抱えたことも、要因の一つだった。
「2023年のワールドカップ後、フランスのクラブからいくつかオファーがあったのですが『もうフランスはいいかな』と自分のプロキャリアに区切りをつけようと思っていました。しかし、エージェントから日本のオファーもあると聞いたとき『それは行きたい!』と即答しました。ずっと日本でプレーしてみたかったんです。
だからこそ、もっと多くの試合に出場することを期待していました。実は、日本のカテゴリーシステムをしっかりと理解していなかったこともあり(サンチェスはカテゴリーC、メンバー23人中3人という登録制限に該当)、ストレスフルな状況が続きました。でも、サンゴリアスのチームメイトたちとプレーした試合は本当に楽しかったです」
特に仲の良いチームメイトは、今年引退を発表した中靍隆彰だった。お互いの家を行き来するほど、家族ぐるみで親睦を深めた。帰国日には、早朝のフライトにもかかわらず中靍一家が送迎してくれ、荷物も搭乗ゲートまで運んでくれた。
アルゼンチンから最も離れた異国でそんな仲間ができたことは、サンチェスにとって今でも忘れられないくらい嬉しいことだった。

サンゴリアスを退団したサンチェスは、アルゼンチンの地元トゥクマン、自身が育ったクラブに選手として帰った。しかし、アルゼンチンにプロリーグはなく、リーグに所属するのはすべてアマチュアクラブだ。サンチェスのクラブも例外ではなく、契約金や大きな報酬があるわけではない。なぜ、この選択に至ったのか。
「キャリアの最後はトゥクマンのクラブに必ず戻ると、ずっと前から決めていました。私たちアルゼンチンのラグビー選手にとって、自分が育ったクラブは本当に大切で特別なものです。国内にプロリーグを持たないアルゼンチンが世界レベルで強いのは、人々の情熱によって支えられてきたクラブが数多くあるからです。私もラグビーを始めたその日から、その情熱に触れてきました。だから、最後は自分が培った経験や知識をクラブに還元するためにプレーすると決めていたのです。その結果、優勝できたことは本当に嬉しかったですし、素晴らしい1年になりました」
引退後、サンチェスは第一線でのラグビーからは少し離れたものの、多忙な日々を送っている。現在は3つの事業に取り組んでおり、世界中を飛びまわる。
6年前、サンチェスは弟のベンハミン氏、プーマスでともにプレーしたトマス・クベリと会社を立ち上げ、『Benito Santos(ベニート・サントス)』というカフェをオープンした。以前から、サンチェスにとってコーヒーは大切なものだった。
プーマスとして世界中を旅しながら、オフの日には各地のカフェに足を運んだ。それがリラックスできる時間のひとつだった。そうしているうちに、アルゼンチンでも同じことをやってみようと思い立ったのだという。今ではトゥクマン市内に6店舗を構える。今回の取材も、その1号店で行われた。
並行して、現役時代から親交があったビジネスパートナーから依頼を受け、カタマルカやサルタなどアルゼンチン国内における鉱物採掘事業にも関わっている。彼の担当はこの事業と世界を繋ぐことで、海外からパートナー企業や投資家を呼び込んだり、機械などを輸入したりしているという。

そしてラグビーでは、中国ラグビー協会のプロジェクトに関わっており、頻繁に北京へ足を運んでいる。実際にコーチングすることもあるが、主に担当するのは中国でラグビーを普及・育成することを目的とした成長戦略の開発だ。
「中国には良い素質を持つ選手が多く、そのレベルと人数には驚きました。彼らの成長を支援すると同時に、自分の成長も感じることができています。また、彼らは成長に必要なすべてを持っていると思います」
現役時代と変わらず、世界中を旅する日々。インタビューに応じてもらった日も、帰国してまもないタイミングだった。しかも、その2週間後にはまた中国に戻るという過酷なスケジュール。中国以外にもインドなど、現役時代と少し行き先は変わったが、飛行機に乗る回数はさほど変わらない。
21歳でアルゼンチンを出てフランスに渡ってから、良いことはもちろん、試練や孤独、多くを経験してきた。サンチェスがラグビーから教わった、人生で最も大切なこととは——。
「2つあると思います。まずはチームとして機能すること。一人でできることはありますが、チームとして戦略を持てば、達成できないことはありません。チームワークです。
そして、メンタリティ。毎日トレーニングして、日々良い習慣を自分に刷り込み、常に最高であろうとすることは選手として最も重要だと思います。トップに立ち続けるためには、良いメンタリティが欠かせません。また、キャリアの中では多くの困難な瞬間があります。メンタリティはチームワークにおいても重要です。

そして、いまは世界中のどこにでも友人がいます。ニュージーランド、南アフリカ、オーストラリア、フランス、日本……どこに行っても、ラグビーを通じて知り合った友人がいます。ラグビーが与えてくれた、素晴らしい思い出です」
最後に聞かずにはいられなかった。もし、のちにコーチとしてプーマスへのオファーが来たらどう返答するのか。
少し時間をかけながら、慎重に言葉を綴った。
「うーん……正直、いまはこの3つのプロジェクトに集中したいと思っています。なので、いまこの瞬間は、コーチになるタイミングだと考えていません。でも、ラグビーは私の人生の一部です。だから今後、もし機会があれば……ノーとは言えません」
今度はコーチボックスで、左胸に豹を宿す。いつか、そんな日がくるかもしれない。