![「外からは見えないプレーをやり切る」。ジェームス・ムーア[浦安D-Rocks]、決意の引退試合](https://www.justrugby.jp/cms/wp-content/uploads/2025/05/KM3_2865_2.jpg)
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6月には32歳になる。22歳からの10年間を日本で暮らした。
東芝ブレイブルーパス(当時)の練習生からスタートし、日本代表キャップ16を重ねる道を歩む。
現在は浦安D-Rocksに所属し、今季(2024-25シーズン)を最後に引退するジェームス・ムーアが、5月31日におこなわれるリーグワンのディビジョン1/ディビジョン2(D1/D2)の入替戦メンバーに入った。
豊田自動織機シャトルズ愛知(D2の1位)との試合は、チームの今季ラストゲームであり、自身にとっても最後のプレーとなる。
今季はD1の12位(最下位)に終わったチームで7試合に出場し、先発は1試合のみ。プレータイムは短かった。
ブーツを脱ぐ決断は、体に相談して決めた。
「体はボロボロで、体力的にきつくなった。毎週プレーできない。チームにも迷惑をかけてしまうので決めました」
そんな中でD1残留を懸けた大一番で先発起用されることになり、「嬉しいし、(選んでもらったことに)感謝します」と話した。
「シーズン最後の試合で、個人的にもラストゲーム。いろんな思いが積み重なる時間となりますが、いつも通り、全力を出してやるべきことをやります」
「プレッシャーの大きな試合ではパフォーマンスも上がる」と、頼もしい言葉もあった。
大舞台に強いことは、多くの人が知っている。2019年のワールドカップ(以下、W杯)では、チームを史上初の8強に押し上げる立役者の一人となった。

同大会では全5試合に出場し、プールステージの最終戦、スコットランド戦で途中交代した以外は各試合にフル出場。371分ピッチに立った。
歴史的勝利を挙げたアイルランド戦ではチーム最多の23タックルと体を張り続けた。同大会での通算67タックルは、出場した全チーム全選手の中で6番目の多さ。成功率94パーセントと抜群の働きだった。
オーストラリア出身。母国ではスーパーラグビーに届かなかった。10歳から21歳までは主にラグビー・リーグでプレーした。
ブリスベンステート高時代こそ15人制もプレーしたが、卒業後は13人制のリーグ生活を送る。
その後、地元ローカルクラブ『Easts』でラグビー・ユニオンに戻り、豪州国内選手権で戦うブリスベン・シティのメンバーに選ばれるのがやっと。ライフガードなどで生活費を稼ぐセミプロだった若者の人生は、日本から声がかかって大きく変わった。
来日当時はまだまだも、当時の東芝首脳陣はうまくなりたい姿勢と人間性を評価して、若者にチャンスを与えた。
鍛えてくれるチームで地力をつけ、2018年度からは宗像サニックスブルースへ移籍し、実力を伸ばした。
2019年W杯直前のフィジー戦で代表初キャップを得て、リーグワン元年のリーグワン2022からNTTコミュニケーションズ シャイニングアークス東京ベイ浦安(浦安D-Rocksの前身)へ。2023年W杯直前のフィジー戦まで代表ジャージーを着た。
日本ラグビーの中で進化し、信頼されるプレーヤー、世界で戦える存在になった。自身の変化について、「プロとしてラグビーに専念できる環境に身を置くことができるようになって変われた」と成長の途中に言ったことがある。
スーパーラグビーでプレーしたくてもできなかった時に「オファーをもらい、チャンスをつかめた」のは幸運だった。
「誰もが親切で、多くの人たちが温かく接してくれた。その中でこの国の文化を受け入れて日本人のように暮らし、日本のラグビー選手と同じように活動してきたことを誇りに思います」
ここまで来られたのは周囲の人たちの支えがあってこそ、と心の底から思う。
2023年のW杯は、同大会へ続く準備の中で赤白のジャージーを着て仲間と共に活動していたが、フランス行きのメンバーが決まる直前にチームから離れた。
当時のことを「体もメンタルも疲弊して離脱しました」と話す。

そんな仲間のことを思い、リーチ マイケル主将は世界が見つめる大舞台に、ムーアのヘッドキャップを被って立った。
「彼とは東芝時代も一緒に戦った仲間です。自分は日本代表から離脱はしましたが、仲間が戦う姿を隣にいるように見守りたい気持ちだった。そんな気持ちでいた時に、マイケルのヘッドキャップ姿を見て自分のことを思ってくれていると感じた。感謝です」
5月24日に刈谷でおこなわれたシャトルズとの入替戦は、28-0とリードしたところから、最終的に42-43と敗れた。
「がっかりしたとしか言えません。あの試合で自分がグラウンドに立ち、チームに貢献できなかったのも残念でした。今週は、先週の間違いを修正して戦います」
「ロックらしい(力強い)プレーもしたいと思いますが、キャリアを通じてやってきた細かいプレー、外からは見えない仕事をやり切ります」の言葉に、この人の価値が凝縮されていた。
戦いを終えたらブリスベンに戻り、まずは弁護士の妻をサポートする生活を始める。そして、かつて勉強していた建築について、あらためて学び直すつもりだ。
2027年にはオーストラリアでW杯が開催される。日本代表が戦うスタジアムにこの人の姿があったなら、周囲の人たちに、「こんな優しい顔をしてえげつないタックルを連発した人なんだ」と、2019年大会の勇姿を伝えたい。