![「やれなくない」を積み重ねた。引退の細田隼都[ダイナボアーズ]は、「最後まで日本代表を目指した」](https://www.justrugby.jp/cms/wp-content/uploads/2025/05/KM3_4674_2.jpg)
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シーズンは、いつもの年と同じように幕を閉じた。
5月9日、秩父宮ラグビー場で浦安D-Rocksと戦った三菱重工相模原ダイナボアーズは21-34と敗れる。トップリーグ/リーグワンでのチームシーズン最多となる7勝目を手にすることはできなかった。
6勝12敗でレギュラーシーズン終了(暫定9位)。プレーオフ進出は叶わず、入替戦も回避。2024-25シーズンを終えた。
この最終戦に背番号1で出場した細田隼都(はやと)は、後半19分に坂本駿介にバトンを渡してベンチへ下がった。
いつもと同じ表情。そして、試合を終えて、普段と変わらぬままスタジアムを出るつもりだった。
これが最後。そんな特別な感情はなかった。
試合終了直前、チームのホームページで発表された『2024-25シーズン終了に伴う退団選手・スタッフのお知らせ』がなければ、6月に30歳になるフロントローを取材区域のミックスゾーンで呼び止めることはなかった。
ただ、知人から贈られたというTシャツを着ていた。そこには、少年時代から現在に至るまでの、細田の写真がプリントされていた。

2019年に慶大から加入した29歳。ラストシーズンとなった今季は12試合に出場している。7試合で先発した。
ダイナボアーズでの試合出場キャップは、最後の日にちょうど60に達した。
初出場は2020年1月20日のキヤノンイーグルス戦(当時)。雨が降っていた。前半20分、敵陣での相手ボールのラインアウトだった。SO田村優がキックしたボールを新人の1番がチャージ。細田は自らトライライン前に転がったボールを拾い、インゴールに置いた。ダイナボアーズでの唯一のトライだ。
イーグルスとは縁がある。今季の第15節は長崎で戦い、38-28と快勝した。その試合にも出場し、「納得できるプレーができた」と記憶している。その日は後半7分からピッチに立ち、21-21と拮抗していた試合の流れを引き寄せた。
10点リードして迎えた後半20分あたり。自陣ゴール前で2分以上攻め立てられた。しかし、最終的には何度も組んだ相手ボールスクラムを押す。反則を誘った。
後半35分には、追うイーグルスがクイックスローから攻め、NO8アマナキ・レレイ・マフィが突っ込んできた。細田は膝下へタックル、瞬時に倒した。仲間のスティール成功を呼んだ。
「小さいやつがさらに低くなった。相手にしたら、石ころにつまずいたような感じだったかもしれません。でも、あれは積み上げてきたプレー。それを出せてよかった」
正直に言うと172センチ。試合後の体重は100キロを切ることもある。
引退の日を振り返り、「試合前もプレーを終えた後も、いつも通りでした」と話す。
「入れ替えで外に出る時は、引退のことは忘れていました。ベンチで(周囲と)話していて、あ、最後だと思い出しました。ただ、きょうの試合内容は自分では納得できないパフォーマンスでした。でも、(引退は)自分で決断したことだし、終わった。それも人生だなあ、と」
大学3年時、4年時を「気持ちよくスクラムを組めていた」と記憶している。最終学年には、いくつかのチームから声がかかった。
「ただ、自分が上のレベルでやれるとは思っていなかったし、翌年、しっかり就活するために就職浪人をしようと思っていたので(勧誘は)お断りしました」

大学5年時もタイガージャージーを着てプレーした。大手不動産会社に就職を考えていた。
そんな時、前年は新卒採用を控えていたダイナボアーズから声がかかった。
「恥ずかしい話ですが、就職浪人がもう1年続いたらまずいぞ、という焦る気持ちもあったし、大学の2つ上の田畑万併さんから『(ダイナボアーズは)すごくいいチーム。ラグビーだけじゃなく、仕事にも注力できる環境がある』という話を聞いて、お世話になることにしました」
当時のことを「いろんな縁が奇跡的につながった」と表現する。
トップチャレンジリーグでプレーすることを想定していたが、入団してみると戦う舞台はトップリーグになっていた(細田が大学5年時にダイナボアーズは昇格を決める)。
今回引退を決めたのは、定めていたターゲットに届かなかったからだ。
「30歳までに日本代表になりたいと目標を立てていたのですが、そうできなかったので決断しました」
代表選出がなくてモチベーションを失うわけではないけれど、やりたいからまだ続ける、とはしなかった。
「そういうレベルの低いチームではないと思っています。なので、区切りをつけて社業に専念することにしました」
沼田一樹チームディレクターに伝えたのは、シーズン中の1月。それより前にも、「試合に出なくてもチームにいい影響を与えられる選手がいると思いますが、自分は出てこそ何かを伝えられる。なので、35歳、40歳まで続けることはないと思います」と石井晃GMらに話していた。
慶應義塾幼稚舎(小学校)の5年生の時にラグビー部に入り、高校進学時は他のクラブに入ることも考えた。「そんな感じだったのに、ここまで続けてこられて不思議です」と言う。
小さな1番が日本代表を志したのは、ルーキーイヤーから出場機会を得て、一歩ずつ階段を昇ったからだ。
「小さな体でしたが、試合に出ることができた。それで、『できなくないな』の感覚を繰り返しました。そんな成功体験を積み重ねているうちに、グラッグス(グレン・ディレーニー ヘッドコーチ)体制になって、勝てなかった相手に勝てるようになり、相手チームには日本代表の選手がいました。それで、日本代表を目標にしていいんだな、と思い、取り組んできました」
やれる、ではなくて、できなくないな。
そこがいい。
実際に日本代表に近づけたと感じたことは「ないですね」と顔をくしゃくしゃにした。
「いいプレーができたと思ったら、次はだめ。そういうことの繰り返しでした」
だからラグビーに飽きなかった。プロップの世界の深さにはまった。

大型化が進むフォワードパックの中に入り、独自の力で対抗してきた。その姿を通して、周囲はいろんなメッセージを感じたかもしれない。
「(ダイナボアーズは)いまはプロ選手も多いのですが、社業があっても全力を尽くせばレギュラーも獲れる。(後輩たちが)背中を見て、そういうことを感じてくれていたらいいですね」
特別な武器があるわけではないが、「小柄ながらも低く、まとまりのあるスクラムを組んできました。(理想とする)完成形には至りませんでしたが、低さでチームを支えられたシーンもあったかな、と思います」と控えめに胸を張る。
「リーグワンを目指す大学生の参考になったら嬉しい」と付け加えた。
約20年のラグビー人生。真っ先に思い出すことはなんだろう。
「ダイナボアーズで言えば、練習後にみんなで工場の周り(約4キロ)を走ったり、チームでキツイことを共有して、疲れたとか、もうやりたくないとか、そんな会話したことを覚えていますねえ。いい思い出です」
プロップって、こんな人たち。細田隼都は、こんな人。
同義でいい。