
北側のゴール裏には、忍者の家が立ち並んでいた。近江国、甲賀から移り住んだ「甲賀百人組」と呼ばれる人々。江戸城の門番が主な任務だった。グラウンドの半分は尾張藩の家老、竹腰家の屋敷だった。
将軍の住む城からほど近いこの一帯は、江戸時代から街の中心だった。秩父宮ラグビー場が建つ今も、それは変わらない。
5つの駅から徒歩15分以内で到着する。周囲には青山、表参道、原宿といった魅力的なエリアがある。渋谷、新宿のターミナル駅にも近い。
「聖地」と呼ばれる各国のラグビー場の中でも、これほど恵まれた立地は珍しい。
イングランドでは、ロンドンを少し離れたトゥイッケナムのキャベツ畑にスタジアムが建てられた。ニュージーランドのイーデンパークにも、かつては同じ野菜が植えられていた。アイルランドのアビバスタジアムは新興住宅地の川辺にできた。スタッド・ド・フランスが位置するのは、パリではなく近郊のサンドニだ。秩父宮に匹敵するのはウェールズ、カーディフ駅のそばにあるプリンシパリティ・スタジアムくらいではないか。

施設に課題があれば改修することもできる。しかし、立地だけは後から変えられない。特に、アクセスは観客に来てもらう上で決定的に重要になる。
2019年にサッカーJリーグで行われた調査によると、観客のスタジアムへの平均移動時間は52分だった。30分以内が4割強、60分以内まで含めると8割に達した。
秩父宮の場合、東京23区のほとんどの駅に加え、千葉、神奈川、埼玉の多くの主要駅から1時間以内で来場できる。近場に住む潜在的な顧客層でいえば、近隣の国立競技場や神宮球場、東京ドームと並び、日本でトップだろう。
スタジアムの立地の重要性は今後、さらに高まりそうだ。米大リーグの名門、ニューヨークヤンキースは近年、温暖化ガスの排出削減に力を入れている。球団の幹部が数年前に話していた。
「一番難しいのが、観客の移動で発生する温暖化ガスの削減です。車でスタジアムに来る人を減らすためには、公共交通によるアクセスがカギになる」。スポーツ団体も今後、気候変動問題への取り組みをますます求められる。電車で来場しやすい本拠地を確保しておくことは、未来へのステップになる。
逆に過去へと目を向けてみると、この場所にラグビー場が存在するのは先達の努力のおかげだと分かる。
戦前のラグビー界は、国立競技場の前身と言える明治神宮外苑競技場を実質的なホームスタジアムにしていた。しかし戦後、米軍の接収に遭う。新たなスタジアムを確保するため、関東ラグビー協会の幹部は候補地を探し回った。
かつての忍者や家老の屋敷は明治維新後、女子学習院(現・学習院女子大学)となっていた。空襲で校舎が全焼していたところに目を付け、協会の人らは土地を借りる。課題の建設費は、各大学のラグビー部のOBらがお金を出し合って解決。1947年に秩父宮ラグビー場が完成した。
都心にある代償か。その後もお金の問題に悩まされた。日本ラグビー協会が国に支払う土地の使用料は年々高騰。1962年には滞納額が大きく膨れ上がる苦境に陥った。協会はスタジアムの所有権を国に譲ることで借金を精算。秩父宮の「家主」ではなくなったが、優先的に使う権利を今に至るまで守ることに成功した。
先人たちが奮闘して守ってきた場所。それが「召し上げ」になる可能性があった。
「あんな一等地にラグビー場が必要なの?」
15年前、神宮外苑地区の再開発について東京都庁の幹部と話しているときに聞かされた言葉である。都民の理解が得られない、という意味だった。再開発の許認可権を持つ組織に、「秩父宮は郊外に移転すべし」の声は存在した。
その後の日本代表の躍進と自国開催のワールドカップの盛り上がりは、空気を変えるのに一役買っただろう。さらに大きかったのが、新秩父宮のドーム型への転換だった。様々なイベントで稼げる「維持費のいらない施設」とすることで、神宮外苑での建て替えが実現した。
青空と天然芝を惜しむ声はある。しかし、新しいラグビー場の形は、この場所を守るための苦心と工夫の跡でもあった。
前述したアビバ、プリンシパリティ、イーデンパークの3つは、同じ企業が建設に関わっている。世界中でスタジアムやアリーナの設計を手掛ける米ポピュラス社。これから着工する新秩父宮ラグビー場にも同社が参画している。

グローバルディレクターのブレット・ワイトマン氏に取材する機会があった。新秩父宮について尋ねると、真っ先に言及したのがやはり立地だった。
「ロケーションが本当に素晴らしい。この場所の歴史、意味を十分に理解し、それを中心にプロジェクトを進めていかなくてはいけないと意識している」
ポピュラスによると、海外の3つのラグビー場と秩父宮には共通点がある。地域とのつながりが強い、極めて狭い敷地に建てられていることだという。
「敷地の狭さをむしろチャンスと捉え、観客がフィールドの近くで観戦できるようにする」とワイトマン氏。選手と同じ目線で観戦できる「フィールドバー」や、30メートルの高さから見下ろす「スカイラウンジ」、斜め45度の位置から全体を見渡す「ラグビータワー」など、多様な客席が用意される。ワイトマン氏は「世界で類を見ない観戦体験を用意する」と力を込める。
新秩父宮のより細かな姿はこれから明らかになってくるだろう。施設の概要が発表された2022年時点の開業日は2027年12月だったが、着工の遅れにより2029年11月以降となっている。関係者によると、1万5447人となっている収容人数は少し増やす方向で検討されているという。
新たなラグビー場ができるのは、今と完全に同じ場所ではない。北に約300メートル、神宮第二球場の跡地が建設地となる。江戸時代、ここにあったのは「御鉄砲場」。近所に住む甲賀忍者が鉄砲を練習する場所だった。
PROFILE◎谷口誠
たにぐち・まこと。日本経済新聞社編集局運動グループ、記者。1978年12月31日生まれ。滋賀県出身。膳所高校→京都大学。大学卒業後、日本経済新聞社へ。東京都庁や警察、東日本大震災などの取材を経て現部署勤務。ラグビー以外に、野球、サッカー、バスケットボールなども取材する。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で社会人修士課程修了。高校、大学時代のポジションはFL。
