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【シャバルの記憶/Vol.1】ラグビーをしていたのは、僕じゃないのでは。
現在のセバスチャン・シャバル氏。1977年12月8日生まれの47歳。191センチ、113キロ。フランス代表キャップ63。(Getty Images)

【シャバルの記憶/Vol.1】ラグビーをしていたのは、僕じゃないのでは。

福本美由紀

「試合には関係ないのですが」——。
 トゥーロンとのチャンピオンズカップ準々決勝(4月13日)を2日後に控えて行われた、トゥールーズのユーゴ・モラ ヘッドコーチ(以下、HC)の記者会見で、1人の記者が言った。

「セバスチャン・シャバルさんの発言についてどう思いますか? ラグビー界はどのような取り組みをしているのですか?」

 それは元フランス代表の人気者で、名LOだった大男が、4月9日に公開されたYouTubeチャンネルで告白したことについての質問だった。
 シャバルはその中で自分が出場したテストマッチについて、「記憶がない」と発言した。

 質問に対しモラHCは、「セバスチャン(シャバル)がこの話をするまで、我々は何もせず傍観していたわけではありません。クラブ、ラグビー界、そしてこのスポーツの医療体制が、すでにこの重大な問題に対して警鐘を鳴らしていました」と率直に答え、現在とられている措置について説明した。

 そして、シャバルの発言を「非常に意義がある」と評価し、「隠蔽されるべきではない事柄に光を当てている。間違いなくこの問題を前進させてくれます。もしすべてのOBが、自分たちのスポーツの発展と未来の世代の保護を少しでも願うのであれば、この方向へ進むべきです」と強調した。
 また、「こちらの会見では初めてお見かけしますね。ようこそ、私たちのグループへ!」と笑顔で付け足した。

 この記者のように、シャバルの告白は、ラグビー専門メディアはもとより、一般のテレビやラジオといった幅広いメディアで大きく取り上げられた。普段はラグビーに関心のない層にまで反響が広がるのは、セバスチャン・シャバルの国民的な知名度の高さを物語るものだろう。

 これほどの反響にシャバル自身も驚いた。彼が解説者として出演するトップ14の番組内で、次のように語っている。

「日常生活には全く問題ありません。心配してくれた皆さん、ありがとう」

 さらに、自身の発言について『告白というより、自分の状態をそのまま述べただけ』と説明し、過去に脳震盪の後遺症に苦しみ、声を上げたにもかかわらず、十分な報道が得られなかった選手たちの存在を指摘し、「『髭男』が記憶がないと言ったからといって騒ぎ立てるのではなく、日々の生活に困難を抱えている人たちにもっと関心を向けるべきだ」と訴えた。

 世界中のメディアで報じられたシャバルの発言は、YouTubeチャンネル『LEGEND』のインタビュー番組内でのものだった。この番組は、ラグビーやスポーツ選手に限らず、過去にはパリオリンピックの卓球でメダルを獲得したル・ブラン兄弟もいれば、俳優、映画監督、高級香水ブランドを創業した世界的コニャックのメゾン「ヘネシー」の御曹司なども出演している。

 さらに、元フランス大統領のニコラ・サルコジ、国民連合党首のジョルダン・バルデラといった政治家、ジブチとソマリア国境での人質解放作戦に始まり、470名もの人質を救出したフランス国家憲兵隊治安介入部隊の初代指揮官も。
 2015年のパリ同時多発テロで被害の大きかったバタクラン劇場の生存者、ゴミの中から人間の頭蓋骨を発見したゴミ収集作業員など、多岐にわたる分野の人物が、1時間半から2時間に及ぶロングインタビューに答えている。

YouTubeチャンネル『LEGEND』より


◆人気なんて、すぐに終わると思っていた。


 番組は、インタビュアーがカジュアルなスタイルでテンポ良く質問を投げかける形で進む。インタビュアーは、『記憶を失ったとおっしゃっていましたね。ラ・マルセイエーズや特別な瞬間さえ忘れてしまったと』と、シャバルに質問を投げかけた。

 シャバルは答えた。「これは僕だけの問題だから、他人に話していない。元選手たちの団体が様々な活動をしている。僕たちは皆、頭に少し衝撃を受けて、いわゆる『頭にきた』状態だ。自分がプレーした試合の一瞬たりとも覚えていないんだ。62回も歌ったラ・マルセイエーズ(フランス国歌)のどれ一つとしてね。時々、家で妻に『ラグビーをしていたのは僕じゃないんじゃないかな』と話すことがある。過去の記憶がないから。それに、偶然この地位にたどり着いた自分が、少しペテン師のような気もしていた。16歳で偶然ラグビーに出会い、望んでいたわけでもないのに、突然名声が舞い込んできた。この一連の流れ、そして記憶がない。だから、ラグビーをしていたのは自分じゃないような気がするんだ」

 さらに、「神経内科医の診察は受けたのですか?」という問いには、「いいえ。何のために? 記憶は戻らないでしょう。自分の人生を再発見するの?」と、豪快に笑い飛ばした。

 医師の診断については、先に触れたトップ14の番組内で受けることにしたことを公表している。

 番組冒頭で「あまり話好きではない。おしゃべりでもないし、無駄なことを言うのは好きじゃない」と言うシャバルだが、このインタビューでは自身の価値観や歩んできた人生について実に多くを語っており、衝撃的な告白だけが注目されるのは、実にもったいない。

 2007年ワールドカップ(以下、W杯)フランス大会での代表選出について、シャバルは自らを分析する。
「開催国ということもあり、人々の注目を集めるインパクトのあるキャラクターが必要とされたのでしょう。僕のプレースタイルは豪快で、見て分かりやすく、観客を盛り上げることができた。その結果、2007年W杯フランス代表の象徴のような存在になったのだと思う」と語る。

 しかし、大会の結果については、「惨憺たる結果だったのに、人々はそれを覚えていない。オールブラックスに勝ったからね。このスポーツではオールブラックスに勝てば、それで勝利になる(笑)。実際はアルゼンチンに2度敗れ(開幕戦と3位決定戦)、準決勝ではイングランドに負けた。僕たち選手にとっては、完全に失敗した大会だった。しかし、人々はオールブラックスに勝利したというイメージだけで記憶が止まっていて、それが定着してしまった」と冷静に振り返る。

 自身の人気についても客観的に捉えている。
「誰もがこの人気は数か月で終わると思っていた。僕もそう思っていた。当然だ。僕はアントワンヌ・デュポンでも、世界最高の選手でもない。良い兵隊、良い選手、良いチームメイトだった。このレベルの人気が維持されるのは普通じゃない。僕はジダンでもデュボンでもないのだから」

 この大会でシャバルの人気はブレークし、彼の人生が変わる。「テレビの力を思い知らされた」と言う。

「当時はSNSなど普及していないし、テレビはものすごい力を持っていた。そこで1か月半から2か月、常に人々の目に映っていた。大会期間中はフランス国立ラグビーセンターに閉じ込められていたけど、周囲で何かが起こっているのは感じていた。大会が終わって帰宅し、妻と街へ買い物に出かけた。すると、お店の中にどんどん人が入ってきて、お店の前まで50人ほどの人だかりができた」

 そこで初めて、この数か月で状況が変わったことに気がついた。
「人々はワールドカップを見ていたのではなく、僕を見ていたんだ」

YouTubeチャンネル『LEGEND』より


 外出すれば、注目を集める。家族と一緒にいる時でも写真を求められる。
「難しい時もある。人々は親切で、優しく、愛情に満ちている。彼らが伝えてくれるのは美しいものでいっぱいだ。だから嫌だとは言えない。嬉しいし、いつも喜びを感じる。でも、家に閉じこもっている時の方が、街で常に人々の視線を感じるよりも落ち着く。個人的には、昔の方が良かったと思っている。決してこの状況を否定するわけじゃない。この知名度のおかげで色々なことができるし、色々なことの扉を開いてくれる。でも時々、無名に戻りたいと夢見ることもある。髭を剃って髪を切れば、もう誰にも気づかれないかな」

◆内向的な人間なんだ。


 トレードマークとなったヒゲと長髪についても、シャバルは次のように語る。「これはイメージでもないし、キャラクターを作り上げたわけでもない。ただ、こうしているのが心地良いからなんだ」と。
 さらに、知名度が出始めた頃の自身を振り返り、「少しでも人目に触れないように、ヒゲの後ろに隠れようとしたんだ。あまりうまくいかなかったけどね」と、ユーモアを交えて語った。

 シャバルは自身のことを「内向的な人間だ」と語る。生まれた時の体重は4900グラムもあり、全身紫色だったため、両親は病気ではないかと心配した。筋肉質すぎて体を曲げられず突っ張ったままで、ズボンを履かせることができなかった。自動車整備士だった父親は、当時の多くの父親と同様、寡黙で無骨だが愛情深かった。
 しかし、その愛情を言葉で示すことは一度もなかった。父が母に遺した最後の言葉の一つが、「3人の子供たちのこと、彼らがどんな人間に育ったかを誇りに思う」だった。

 それを聞いてシャバルは「ほっとした。だって、僕たちは常に自分自身について自問自答しているでしょ。自分はどんな人間なのか、これで良いのか、改善すべき点はないのかと。多くを語らない父が話す時は、重要なことを伝える時。その言葉は一層強く心に響いた」

 幼少期、学校が休みの間は祖父の農場で過ごした。祖父は家畜商人で、農場と厩舎を所有し、シャバルも動物の世話を手伝った。祖父が家畜をトラックに乗せて舗装されていない道を行く。シャバルもついていった。

 そこで見た思い出を、シャバルは鮮やかに語る。
「農場に立ち寄り、商談が行われ、二人の大人が握手を交わすと、それは商談成立の瞬間だった。一度言葉にすると、そして握手を交わすと、もう後戻りできない。僕の価値観はそこで築かれた。商談が成立すると、祖父の財布は札束で膨れ上がり、子供には折り曲げることさえできないほどだった。すごかったよ。そして、農家の人が私たちをテーブルに招き、赤ワインを出してくれるんだ。8歳の子供の前に、真っ赤なワインが注がれて向こう側が見えないグラスが置かれるんだよ! なんてことだ! でも、当時はそれが当たり前だったんだ」
 マルセル・パニョルの映画のような情景だ。

 ラグビーを始めたきっかけは偶然だったと語る。

「15、16歳くらいの頃かな、友達もでき、一緒に出かけ、原付バイクも手に入り、少し自由になった。それで、村の友達とサッカーをすることになった。でもその年、僕たちの村にはサッカーのジュニアチームがなかった。隣の村に行くとラグビーチームがあり、そこでラグビーをするようになった』

 幼い頃にもラグビーに触れたことはあったものの、家庭にスポーツの文化がなく、2、3か月で辞めてしまった。また、当時のシャバルにとって、ラグビーは荒々しく激しすぎるスポーツで、魅力を感じなかった。

 しかし、仲間と一緒に始めて、彼はその魅力に気づいた。「僕は内向的な性格で、どちらかというと人についていくタイプで、目立つことを好まず、口数も少ない。でも、ラグビーでは、一緒にプレーした仲間や指導者たちが、僕に居場所を与えてくれた。自分がチームの役に立っていると感じた。今こうして話していても、鳥肌が立つ」と、身振りを交えながら語る。

 さらに、彼はこう続ける。「自分が集団に貢献していると感じた。それが私を突き動かす原動力なんだ。年齢を重ねるにつれて、自分の人生や人間関係について深く考えるようになった。僕が幸せを感じるのは、人を助けること、そして彼らが成長し、目標を達成する手助けをすること。群れのリーダーになりたいとは思わない。集団の中で、しっかりと自分の役割を果たせる一員でありたい。そして何よりも、みんなの役に立ち、貢献したいんだ」


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