◆ンチェ、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー候補にプロップとして初選出。歴史を作る
11月18日、ワールドラグビーは2025年度、15人制男子のプレイヤー・オブ・ザ・イヤーの候補者(ノミニー)を発表した。昨年度と同じくスプリングボックスから3名、PRオックス・ンチェ、HOマルコム・マークス、そしてFLピーターステフ・デュトイ、そしてフランスのWTBルイ・ビエルビアレの計4名が候補者としてノミネートされた。

ワールドラグビーのプレイヤー・オブ・ザ・イヤー創設からすでに四半世紀近い年月が流れる。昨年の弊コラムでお伝えしたとおり、その歴史の中で、ただ一つ、頑なに扉を “閉ざされ続けてきたポジション” がある。
プロップだ。プロップの選手が受賞どころか、ノミニーとしてすら名を連ねたことがこの24年間なかったという事実を知ったとき、この賞の選考基準に疑問を感じた。そして同時に、世界中で黙々とスクラムの底辺を支える多くのプロップの選手たちの姿が脳裏に浮かび、どこかやるせない気持ちになった。
その重い扉が、今年ついにきしむ音を立ててプロップに開かれた。遂にンチェがノミニーに選ばれたのである。これは単なる一選手の快挙ではない。ラグビーという競技の美学が、ようやくプロップの献身と技巧に光を当てはじめた証でもある。歴史がンチェにより静かに書き換えられた。そう言っても、決して大げさではないだろう。
ンチェには観客を総立ちにさせるような華々しいトライはない。スタジアムの空気を一変させるペナルティキックもない。ただ、ひたすら愚直に、スクラムを押し続けてきたことがようやく評価されたということなのだろう。
このように書くと誤解されてしまうかもしれないので付記するが、ンチェはスクラムだけのプロップでは決してない。テストマッチのレベルではそこまで目立たないが、所属チームのシャークスにおいては、ンチェはフランカー顔負けの走力で攻守に躍動し、トライも奪えば時にはキックも放つ、多面的な能力を備えた選手だ。
そうした総合力を持ちながら、それでもなお “スクラムの男” として記憶されるのは、このスプリングボックスのプロップにしては小柄なンチェが、その最前線において圧倒的な存在だからにほかならない。
弊コラムでは何度も繰り返しているが、2019年のワールドカップ以降、スプリングボックスの黄金期を支えているのは、強力FWを持つオールブラックスやアイルランドを凌駕するほどの、世界最強スクラムだと筆者は個人的には思っている。そのスクラムのまさに支柱的存在であるンチェが世界最優秀選手候補の一人として選ばれたことは、ンチェ、そしてプロップというポジションに対して正当な評価がされたということであり、非常に喜ばしい。
◆プレイヤー・オブ・ザ・イヤーはマルコム・マークスへ。
そして4日後の22日にノミニーに選ばれた4選手の中から、HOマルコム・マークスがプレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。正直、この段階まで残った選手であれば、誰が受賞してもおかしくはない。そもそも、ポジションも役割も異なる選手たちを比較するということ自体難しい。
その中でもマークスは今年、同じポジションのHOボンギ・ンボナンビのケガが多かったこともあるが、スタメンでの出場機会が多く、最近でも主要テストマッチ7試合で、平均70分近くピッチに立ち続けている。前後半でフロントローを総入れ替えすることも珍しくない現代ラグビーにおいて、これはほとんど異例と言っていい。マークスの運動量は規格外であり、勝利への貢献度も大きい。プレイヤー・オブ・ザ・イヤーという称号に相応しい働きだったことに誰もが賛同するだろう。

もちろん、マークスはンチェと同じフロントロー。フッカーとして強力スクラムの舵取り役として前列を束ねる存在でもある。ラインアウトの精度も年々上がっており、セットピースの信頼性を支えるまさにFWの大黒柱だ。それに加えて、昨年もノミニーに名を連ねていたことを思えば、今回の受賞は、今年だけではなく、ここ数年にわたる安定したパフォーマンスが評価されたのだろう。積み上げたものが、静かに頂点へ届いた。そんな受賞であった。本当におめでとうございます。
ピーターステフ・デュトイも、怪我からの復帰シーズンでありながら、スプリングボックスではアタックにディフェンスに獅子奮迅の働きを見せた。あの巨体ながら規格外のタックル数、突進力、そして要所での存在感。彼が年間最優秀選手に選ばれていても、まったく違和感はない。ただ、すでに2度この賞を手にしているという事実が、どこかで選考に影響した可能性は否めない。
◆優しきプロップ、その矜持。
さて、筆者一推しのンチェである。今回のエンド・オブ・イヤー・ツアー(オータム・インターナショナルズ)では初戦の日本戦で膝を痛め、その後、南アフリカへ帰国した。今年度は怪我が多くマークスのようにフル操業とまではいかなかったことが、受賞を逃した理由のひとつかもしれない。ただ、ンチェがピッチに立った試合を思い返せば、スプリングボックスのスクラムは常に優勢だった。
自陣でのスクラムでは、相手のコラプシングやアングルの違反を誘い、苦しい局面で攻撃権を奪い返す。敵陣では、それがそのままPGに結びつき、ゴール前ではスクラムトライやペナルティトライに変わる。スクラムが戦術の起点となり、得点の源泉となる。
そして、FWの選手だけではない。スクラムを背後から見ているBKの選手たちにとっても、あれだけスクラムが相手を圧倒していれば、本当に心強いだろう。スクラムを押すことで、敵ボールではディフェンスの一歩目をはやく踏み出すことができ、マイボールでもスクラムの勢いに乗って、仕掛けたい局面で迷わず勝負できる。緊迫した試合の中での “余裕”、“安心”、そして“優位” をスプリングボックスにもたらしてきたのが、スクラムだ。
しかし、ほとんどの場合、華やかにトライを決めたBKの選手しか人々の記憶には残らない。たとえスクラムトライを決めても、スコアシートには最終的にグラウンディングしたNO8やスクラムハーフの選手の名前が記録される。しかし、それらのトライやPGなど、勝利の根幹を支える者たちがいることを忘れてはならない。その価値を、ようやくワールドラグビーも正当に評価してくれるようになった。
筆者が、僭越ながらンチェに強い好感を抱いている理由がある。それは、あれほどスクラムで圧倒的な力を発揮しながら、他の選手がよく見せるような雄叫びも、誇示するようなガッツポーズもほとんど見せない点だ。

スクラムは相手がいて初めて成立する勝負であり、その成否はしばしば対面する選手のプライドを揺さぶる。ンチェは、敗者の微妙な気持ちの変化を理解しているのだろう。スクラムに圧勝し、FWの同僚たちが歓喜のハグや、頭を撫でてくるときも、特に喜ぶそぶりはみせずに、静かに受け流していることが多い。
そして時には、スクラムで自分がめくり上げた対面の選手を気遣い、声をかけることさえある。スクラムというラグビーの中では格闘技的要素の強い、激しい攻防の中でも、柔らかな配慮ができる心優しきプロップなのである。
ンチェにとってスクラムは、ただ果たすべき責務なのだろう。「自分の仕事をしただけです」とでも言いたげな、あのクールな佇まい。その無欲さ、そして静かな強さに、筆者は惹かれてしまう。
派手さより静けさを選ぶ者もいる。スプリングボックスFWがスクラムトライを果たし、観客が沸くなかでも、ンチェは特に笑顔でもなく、涼しげな表情で淡々と自陣に歩み戻っていく。その大きな丸い背中に、記録には残らないが、そのトライに大きく貢献したプロップとしての矜持が滲む。
◆来年こそは。プロップにもっと光を!
今年は残念だったが、来年こそはプレイヤー・オブ・ザ・イヤーに選ばれてほしい。ンチェは世界中で縁の下の力持ちとして愚直にスクラムを押し続けているプロップたちの希望の光になりつつある。今のところ、その頂点に最も近づいているプロップは、今のところンチェ以外には見当たらない。
11月26日にワールドラグビーが発表した今年度の世界ベストXVともいえる「ドリームチーム・オブ・ザ・イヤー」には、スプリングボックスからンチェ、マークス、そして、PRトーマス・デュトイのフロントロー・トリオ、他にはFLピーターステフ・デュトイ、SOサーシャ・ファインバーグ・ムゴメズル、WTBチェスリン・コルビの計最多の6名が選出された。ンチェ、マークス、ピーターステフ・デュトイ、コルビの4名は昨年に引き続き2年連続の選出となった。
ここでもスプリングボックスのフロントロー全員が選ばれたということは、スクラムがランキング1位、スプリングボックスの原動力であり、勝因の一つとして評価されている証左だといえる。
最近、スプリングボックスのスクラムが強すぎるため、スクラムの勝敗に及ぼす影響力を下げるようなルール改正が水面下で検討されているという噂を耳にした。真偽は定かではないが、もし本当にそういった動きがあるのであれば、それは15人制ラグビー、ラグビー・ユニオンの在り方の根幹、そして競技の思想そのものを揺るがすことになりかねない。スクラムの存在感を薄めることは13人制、ラグビーリーグに歩み寄ることにもなるだろう。ガセネタであることを信じたい。


しかし、そのような噂が生まれるほど、スプリングボックスのスクラムは相手チームから脅威として見られているということでもある。ンチェがもしそのことを聞いても、自分たちのスクラムがそれだけ影響力を持っているということに対しては悪い気はしないだろう。
オックス・ンチェ、本名はレツヘゴファディツウェ・ンチェ。ちょうど30歳。ブルームフォンテインから65キロほど東にある小さな村の出身。小学校時代にラグビーのコーチから熱心に誘われたが、ラグビーは自分には荒すぎるスポーツと思い、断り続けてサッカーに専念していた。高校時代に頭角を出し、高校代表、U20、A代表、そしてスプリングボックスと段階的に成長を遂げた。
世界最高峰までもう少し。ンチェには来年こそは怪我で中断することがなく、テストマッチでスクラムを押しまくり、最後にはプレイヤー・オブ・ザ・イヤーのトロフィーを掲げてほしい。
プロップに光を!
【プロフィール】
杉谷健一郎/すぎや・けんいちろう
1967年、大阪府生まれ。コンサルタントとして世界50か国以上でプロジェクト・マネジメントに従事する。高校より本格的にラグビーを始め、大学、社会人リーグまで続けた。オーストラリアとイングランドのクラブチームでの競技経験もあり、海外ラグビーには深い知見がある。英国インペリアルカレッジロンドン大学院経営学修士(MBA)修了。英国ロンドン大学院アジア・アフリカ研究所開発学修士課程修了