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上体と腰と太ももがひとつながりにうねる。ぐらつくところは皆無。駆け抜け、腕を伸ばしてタックルをそよ風に変え、走り切る。
イングランド女子代表、レッド・ローズのおもに右ウイングで59キャップを得て50トライを挙げた。本年9月のワールドカップ決勝ではトゥイッケナムを埋めた8万1885もの観客の凝視の先に躍動、金杯を掲げてみせた。
現在28歳。女子ラグビー史の絶頂にキャリアのピークを鮮やかに重ねた。なのに、その人、アビー・ダウは一線を退く。「28歳」は「38歳」のミスタイプではない。
レッド・ローズを率いるニュージーランド人、元日本代表コーチでもあるジョン・ミッチェルHC(ヘッドコーチ)は述べた。
「世界最高の右ウイングは最盛期にわれわれのチームを離れることになる。新たな人生の区切りを尊重します」(BBC)

なぜ? アビー・ダウは語った。
「ラグビーはこれまでの人生の中核にあり、今日のわたしを形成してくれた。ただ、もうひとつの情熱であるエンジニアリングにも引き寄せられています。そこでブーツ(スパイク)を脱ぎ、次の世界で力を試そうと決めました」(ガーディアン)
学術において高評価を集めるインペリアル・カレッジ・ロンドンで機械工学の修士号を取得している。明確な仕事を決めてはいないものの複数の企業との交渉は始めている。
本人は述べる。
「エンジニアリングには筋が通っている。そのことは自分にピッタリだと思う」「ことに自動車分野の高性能の工学については魅了される」「よき設計と技術革新のための努力を惜しまない。未知のこと、まだ教わっていないことを学んでいく」(BBC)
机上の「筋」を超える爆発的スプリントで鳴らすトライ量産ランナーはどうやら論理の賢者でもあるようだ。

全盛に引退の例はジャパンにもあった。やはりウイングの福岡堅樹である。2019年のワールドカップ8強進出で世界の顔となりながら28歳で医学の道へ。いまも順天堂大学に学ぶ。速く、速いから強く、大きくはないのに空中戦を引かず、激しい攻防に正しく賢い選択ができた。
惜しむ声は絶えず、本稿筆者の知人の酒場店主は何度も同じことをつぶやく。
「順天堂大学医学部にラグビー部はあります? ありますよね。そこで少しでも体を動かしてくれたら、いつかジャパンに復活もあるのでは。でも、このあいだテレビで姿を見たら肌が真っ白なんだよなあ」
国際ラグビーのヒストリーでは、ウェールズの掛け値なしの天才で永遠の10番、バリー・ジョンも経歴の山頂の28歳に現役を突然退いた。1972年4月の衝撃のニュースだった。
前年のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズのニュージーランド遠征でオールブラックスに勝ち越した。愛称「キング」は、当時のアマチュアのラグビー界に初めて出現したスーパースターであった。
金融機関の営業担当なのにセレブリティーよろしく各界の夕食会に引き回され、あげく取引先のイベントでは、とある女性が王族にするのと同じ「膝を曲げる」仕草の挨拶で迎えた。もう限界だった。心身の均衡の整う年齢なのに、いちばんの名手はまさに「ブーツを吊るした」。逸話に収まらぬ歴史の皮肉である。

53年後のアビー・ダウはプロ選手から次の専門職へ向かう。バリー・ジョンはアマチュアなのに、名士みたいに扱われて「どんどん普通の人間から引きはがされている」(自伝『真紅のジャージー』)と感じ、それを嫌悪した。
おしまいに「最後の」話を書きたい。プロ化直前の「最後のアマチュア」について。
スティーブ・メリック。オーストラリア代表ワラビーズの背番号9で2キャップを手にしている。1995年のブレディスローカップ、オールブラックスとの連戦である。かのジョージ・グレーガンを押しのけてポジションをつかんだ。
7月22日(オークランド)、29日(シドニー)、怪物ジョナ・ロムーを含んだ黒ジャージィに16-28および23-34と惜しくも負けた。
大切なのは日付である。
当時の国際統括団体のIRBがプロ容認の「オープン化」を公にするのは同年8月26日だった。したがってメリックの出場試合は「アマチュア最後のテストマッチ」とも解釈できる。
加えて、チーム唯一の喫煙者であったハーフが「最後の」といまも呼ばれるのはプロ契約のオファーをあっさりと拒んだからである。
メリックは炭鉱労働者であった。石炭積載のトラック運転手。大都市シドニーから北へ自動車で2時間ほどの人口1万2000強のシングルトンという土地で額に汗しながら仕事仲間とローカルのラグビーを楽しみ、ビールを酌み交わす。それが人生だった。


プロ時代到来で新設のスーパーラグビーをにらみ、オーストラリア協会は代表の面々とは、それなりの額の契約を結ぼうとした。メリックも対象である。
ただし条件はあった。ワラターズ所属に際してのシドニー居住だ。それは炭鉱仕事のシフトが週末にかかると主力が集まらず、たちまち戦力弱体のクラブ、愛してやまぬシングルトン・ブルズとの別れを意味した。交渉の席にともに臨んだ妻は言った。
「貧しくとも幸せでありたい」(ガーディアン)
サインはせず、故郷へ戻った。26歳でファーストクラスの競技を去る。プロ化の波に乗ったグレーガンは2007年までにワラビーズの139キャップを獲得。メリックはあの年の4週間の活動期間につかんだ「2」のままだった。
1995年8月11日付のキャンベラ・タイムズ紙にこう語っている。
「マネーに関心はない。ビジネスは会計士のもの。ラグビーは選手のものだろう」
シドニーの私立学校出身の経済エリートでなく、庶民の中の庶民がアマチュアリズムの最終支持者となった。ひと回りした「おとぎ話」である。
アビー・ダウ、エンジニアへ。福岡堅樹、医師へ。バリー・ジョン、民のひれ伏す王冠をおのれで外す。そしてスティーブ・メリックは炭鉱暮らしをやめたくなかった。自分の意思を憲法とする。ラグビーである。