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鈴木一平[日本体育大学4年]◎母校は県立勝田高校
最上級生になった今季、関東大学対抗戦の開幕から3戦連続で先発出場中。(撮影/松本かおり)

鈴木一平[日本体育大学4年]◎母校は県立勝田高校

藤島大

 人格とは。「高尚な人がら」と辞書にあった。21歳の青年を人格者と称したら、いささか尚早だろう。だから、いまのところはグラウンドの上に限り、そう呼ぼう。

 鈴木一平。茨城県立勝田高校出身。日本体育大学ラグビー部のセンターである。10月11日の明治大学戦における攻守のたびに思った。

「人格が倒し、人格が当たり、人格が走っている」

 当日のメンバー表を引けば「168㎝、90㎏(ラグビーマガジンの選手名鑑では84㎏)」。
 人間のサイズは物理と別のところでも測れる。近くに寄ると温厚な表情のスポーツマネジメント学部4年生は小さくて大きい。

 対抗戦Aにあっては、どうしても劣勢の時間が長い。したがって防御ではフル稼働、読みの深さと迷いのないタックルを組み合わせては体を張る。
 攻撃でも逡巡を死語とする。全力で当たり、やむなく正面衝突となっても、わずかであれ前へ出た。

 12-43の敗戦。直後にスタンド下の通路で語ってもらう。ディフェンスもアタックもよく前に出ましたね。

「体が小さいので少しでも引いたら返される。どんどん足をかいて、気持ちと仲間のサポートを借りて勝負しています」

10月11日の明大戦で相手の芯にタックルに入る(背番号13)。(撮影/松本かおり)


 この日、日本体育大学は難事に襲われた。部内にインフルエンザが広がって19人が感染、2日前のメンバー発表時にすでに前節より多数が変更、それどころか前日から当日の朝にかけてまた複数の欠場が決まった。
 
 机上の理屈なら惨敗で不思議はなかった。しかし、急遽出場のフッカー、楳原大志(長崎北陽台)が見事にゲーム主将を務めて(日本列島のあらゆる組織はこの若者を雇ったほうがいい)、あらためて本稿の主役の鈴木一平、さらに右プロップの吉田伊吹(山形中央)ともども、先発に3人の最上級生でクラブの誇りをなんとか守った。

「焦りは正直、ありました。(前節から)半分以上が欠けたので。1年生もたくさんいましたし(23人のうち8人)。ただ僕が焦って崩れたらチームも崩れてしまう。誰が出ても日体大はディフェンスができるというところを見せたかった」

 さて気になるのは「勝田高校」だ。近隣の勝田工業高校のラグビー部は活発だが、こちらはなかなか耳にしない。部員はどのくらい? 

「毎年、新入生がきて15人に届くかどうか。僕が3年のときの花園予選は13人。(秋までに)部活を終えた野球部とバスケットボール部の選手を借りて15人、なんとか参加させてもらえました。日立一高に負けてベスト8です。春は合同チーム(水城、水戸第一と3校)で決勝までいきました」

 中学ではどの競技を?
「卓球部でした。それとは別に外で陸上競技を続けていました。100mと200mです」
 そのころの100mの自身のベスト記録は?
「12秒3。伸びる感じはありませんでした」
 鈴木一平はただ走ってはもったいなかった。倒して転び、痛みをこらえて駆けるように創造されている。
 
 なぜ高校でラグビーを?
「父親が大学、新潟大学の医学部のチームなんですけど、そこでラグビーをしていました。それで僕もやってみたいと」
 外科医の父は勝田高校の実質のチームドクターを買って出たそうだ。
「本当に感謝しかありませんでした」
 いい息子なのである。

 茨城県代表などなんらかの選抜の対象になったりは?
「いえ、まったく」
 日本体育大学へは一般の試験で入った。ちなみに優しい父と同じ道、ドクターをめざす考えはなかったのか。 
「父は僕をのびのびと育ててくれました。好きなことをしなさいと。2学年上の姉は信州大学の医学部です。卒業のタイミングは重なるんですけど。僕自身は、そんなに勉強が得意でもなかったので」
 最後のくだり。信号が青なので横断歩道を渡るみたいな口調だった。みずからを飾らない。こんな「人がら」の奥底には柔らかくて丈夫な芯が通っている。
 
 大学1年。筑波大学との最終戦の後半に初めて起用された。5-79の大敗。そこで気づいた。

「自分は勝田高校、相手がラグビーで名のある高校と思ったら、その時点で止まらない。ひとりの人間として止める」

 2年はB降格。昇格後の3年は負傷。最後のシーズン、部の運営の諸事にかかわる「主務」の重責を担いつつ、先発の中核として「全国大学選手権出場」の目標へ突き進む。
 
 今季ここまで強豪の早帝明と体を当て合った。実感を言葉にしてください。
「フィジカル、コリジョンやコンタクトは通用した。でもスキルとコミュニケーションが足りない。日体大として通じるところをどういかして、トライに結びつけるか。そこが求められると、この3戦で感じました」

教員志望。将来は高校ラグビー部の指導にあたりたい。(撮影/松本かおり)


 放送解説をしながら、よい教師になるだろうと確信した。「体育大学」からの連想だ。そこで本人に質問。先生になるつもりは?
「高校保健体育の教員をめざしてます。ことしの茨城県の採用試験は落ちてしまったんですけど、非常勤講師の登録はしたので」
 ダメだよ。この人を落としちゃ。来年は講師をしつつ、再度の試験に挑み、いっぽうで私学も視野に収める。いずれにせよラグビー部の指導こそは大志である。
 高校時代の恩師、尊敬する鈴木昌幸監督の教えは胸に棲んでいる。一例で雨天の明治戦のあとの一言。
「こんな天候にもかかわらず足を運んでいただいた観客の方への感謝を忘れてはいけない。そういうことを鈴木先生に教わりました。僕がいまいちばん大切にしているところです」

 自室に「勝田高校」は生きている。緑に白のラインをあしらったジャージィと同期との写真を飾ってあるのだ。仲間は6人+「野球とバスケのふたり」。いまでも絆は切れない。
 
「勝田高校で彼らとラグビーができて、いい思いをして、だから自分はここにいる。それがなければ日体大に入っていません」

 母校は来春に中高一貫の「勝田中等教育学校」へ完全移行する。

「校名は変わってもラグビー部はずっと続いてほしいです。いつか中学から指導して茗溪学園や清真学園を倒したい」
 
 次戦は10月26日の対慶應義塾大学。またしても難敵だ。濃淡ブルーの13番はきっと開始ほどなく、格上とされる黒黄をめがけて肩や腰骨を精一杯ぶつける。鈍い音のする瞬間こそは「勝田中等教育、初の花園出場」という長編ストーリーの序章、その始まりの数語なのである。




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