![カーン・ヘスケス[ルリーロ福岡]◎最初から最後まで、ありがとう。](https://www.justrugby.jp/cms/wp-content/uploads/2025/05/people_KarneHesketh.jpg)
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多くの友人たちが、日本での最後となるかもしれない試合を観にきていた。
5月11日、東京・調布市のAGFフィールドではリーグワン、ディビジョン3のヤクルトレビンズ戸田×ルリーロ福岡がおこなわれた。
ルリーロが27-15と、今季最終戦でシーズン3勝目を挙げたその一戦の後半26分からカーン・ヘスケスはピッチに立った。試合後は、応援に来ていた宗像サニックスブルース時代の仲間や、ともに戦った日本代表のチームメート、ファンらと長い時間を過ごした。
「来シーズンのことは、まだハッキリとは決まっていません。家族のこともあり、また戻ってこられるかどうか決めるには、時間が必要です」
そんな状況だからお世話になってきた人たちには、あちこちで「サヨナラかも」と伝える最近だった。
トップリーグ/リーグワンでの通算キャップは、この日で101になった。

節目の100キャップは、5月4日のマツダスカイアクティブズ広島戦だった。ホストスタジアムの久留米総合スポーツセンター陸上競技場でおこなわれ、その試合にも、たくさんの仲間たちが集まった。
ブルースの旧友たちの中には、開催中だったサニックス ワールドラグビーユース交流大会に参加しているハミルトン・ボーイズ・ハイスクールに息子が学んでいるジェイク・パリンガタイら、懐かしい顔もあった。
スカイアクティブズのヘッドコーチは、かつての同僚、ダミアン・カラウナ。たくさんの縁が入り混じっていた。
その日の試合後会見で100キャップについて「素直に嬉しい」と話した陽気な男は、「シーズンのはじめに(今季中に)100キャップはいけると思いましたが、途中で怪我もあり、99で終わるかも…と心配になりました。なので、しっかりリハビリをしました。きょう、戻ってこられてよかった」と話し、「サポートしてくれたひとたちみんなを誇りに思います」と感謝の気持ちを伝えた。
この日の試合も背番号19で後半15分からピッチに立ち、スクラムに加わったように、2024-25シーズンはフランカーとしてプレーした。
馬力あるWTBにポジション変更を提案した豊田将万ヘッドコーチは、「ジャパンであれだけの結果を出してきた男が文句も言わずにフランカーに取り組んでくれた。人としてかっこいいし、チームを牽引する力もある。感謝と敬意しかない」と信頼の言葉を口にした。

同HCは、コカ・コーラレッドスパークスでプレーしていた現役時、ブルース時代のヘスケスと何度も対戦している。
「練習試合も含めると10どころではない数の試合で戦っていますが、その半分はやり合った」と血気盛んだった頃のことをジョークで語り、「彼しかできないプレーをする」と、その価値を口にした。
ブルースでも時間を共にし、いまはルリーロの主将を務める三股久典は、「流れの確認をする練習なのに、全力でコンタクトバッグに当たってくることもあった」と、規格外の男だったことを伝えるエピソードを紹介した。
ヘスケス自身は、フランカー転向について、「フレッシュなチャレンジ」と前向きに受け入れていた。
「サポートプレー、ハードキャリーと、新しい役目、タスクを得ました。ボールキャリーは好きだから楽しんでやれたし、(自由度も高く)ワイドに立ってアタックもできる。そこも楽しめました」
ブルースがリーグワン2022での活動を最後に休部となり、2023年の秋にルリーロに加入、活動を再開するまで本格的なプレーから離れた期間があった。
しかし、その空白を意に介することなく、その後も駆け続けた。
「体力など、アスリート的なところの戻し方は分かっているので問題はありませんでした。ただ、新しいチーム、新しいグループに入る時のコネクションの作り方は、誰だって簡単ではありません。なので、チームの一員になるため、オフフィールドでのハードワークはしました」
そうやって、どこにボールを投げたら誰がいるのか、チームメートの理解を深めていった。それなりの時間は必要だったけれど、そのこと自体を楽しんだ。
日本にやって来たのは2010年。その年のトップリーグで戦ったコカ・コーラ戦を、もっとも記憶に残っている試合と話す。
「日本に来て初めて出た試合(公式戦)でした。日本のファンの前に立ってプレーする感覚を得て、コミュニティーの一員になれたと感じました。(当時、九州の地でライバル関係にあった)サニックスとコーラの試合がどれだけ重要なものか理解していませんでしたが、試合が終わった後、それがどれだけ大きいものか理解しました」

以前にも、日本での生活の原点がそこにあると話したことがある。
後半7分から登場し、トライも挙げたその試合には22-17と競り勝った。ファンが興奮しているのを感じた。
「相手に思い切りぶつかる自分のプレースタイルは、ブルースが僕に求めているものでした。それをファンも喜んでいた。それなら、ここでやっていきたいと思いました。一緒に強くなっていきたかった」
1985年8月1日生まれの39歳。ニュージーランドのホークスベイ地方、ネイピアに生まれた。
5歳のときにネイピア・テック・オールドボーイズクラブでラグビーを始め、ネイピア・ボーイズハイスクールに進学。FWでバックローを務めていた。
高校卒業後、オタゴ大学に進んで解剖学を学ぶ。アルハムブラ・ユニオンクラブでプレーしていたとき、コーチのアドバイスを受けてWTBにポジションを変えた。
NPCのオタゴ代表でプレーした後、来日した。妻カーラさんは女子NZ代表で長く活躍した。
日本代表キャップ16を持つ。2015年のワールドカップに出場し、初戦で南アフリカを34-32と破り、世界に衝撃を与えた。
その試合でヘスケスが登場したのは、29-32のスコアだった後半38分。タッチライン脇で4分ほど待った後にピッチに入り、ボールタッチは一度だけ。ブレイクダウンに頭に突っ込んだり、地味な仕事を続けた後、最後に世界に衝撃を与える逆転トライを挙げた。
その興奮の瞬間から4年が経った2019年の日本でのW杯開幕前。大会を盛り上げるためにも、南アフリカ撃破のトライシーンが巷で何度も繰り返し流された。
その時期に会ったヘスケスは、「あのトライの前とあとで、自分に変化はあったか、と聞かれることが多い。多くの人に覚えられている立場になったことは自覚しているし、以前の自分とは違うとは思うけど、それがどう変わったのかは、言葉では説明できない感覚。変化は、周りの人が感じることだと思います」と言って、「あのシーンが繰り返し流されるのは嬉しい」と話した。
その理由に、ナイスガイと評される理由が詰まっている。
ワールドカップ史を振り返る時、そのほとんどの映像は、第1回大会のジョン・カーワンの激走や、1995年大会の南アフリカ、ネルソン・マンデラ大統領とフランソワ・ピナール主将をクローズアップしたもの、2003年大会のジョニー・ウィルキンソンの決勝DGと、個人に焦点を当てたものが多いのに、「2015年のそのシーンは、日本代表が凄いことをやったと、チームにスポットライトがあたっている。それがいい」

100キャップ獲得の試合後も2015年W杯のトライについて問うと、「イベントや試合のときに、そのことを知っている子どもたちに会うし、誇りに思ってくれていて嬉しいですね。みんなもジャイアントなチームにも勝つことができる、と伝えられたと思う」と穏やかに微笑んだ。
「少し前に、大野均さんに言われました。いまの子どもたちは、日本代表が(1995年W杯でNZに17-145と)130点差で負けたことなんて知らない。マオリ・オールブラックスにも勝つこともできる強いチームと思っているし、日本のラグビーは世界でもやれる、という思いがある、と」
世界を驚かせ、日本ラグビーの歴史とマインドを変えた立役者の一人、ヘスケスの来年以降の去就がどうなるのか、まだ明確になっていない。
しかし、残してくれた数々のプレーとともに、この言葉はいつまでも大切にしていたい。
それは、サクラのジャージーを着てプレーする外国出身選手たちの気持ちを代表してのものだった。
「理解してほしいのは、僕たちはみんな、ジャパンに選ばれる前から日本が好きだから代表選手としてプレーしている。その順番を忘れないで」
ありがとう以外の言葉が見つからない。