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【引退インタビュー】導かれた。これからは導く。嶋田直人[横浜キヤノンイーグルス]
1991年5月21日生まれ。伏見工→立命館大→横浜キヤノンイーグルス。180センチ、98キロ。(撮影/松本かおり)

【引退インタビュー】導かれた。これからは導く。嶋田直人[横浜キヤノンイーグルス]

田村一博


◆悔しい思いをしたことが、今後の人生で力になる。


 大学の卒業を控え、どこからも誘いのなかった男が、「拾ってくれた」先で100試合超の試合出場を果たし、そこで競技生活を終える。
 これだから人生はおもしろい。

 ラグビー歴を書き出せば、立命館大学のあとは横浜キヤノンイーグルスだけ。2014年の春に加入し、足かけ12年、11季にわたり在籍した嶋田直人が2024-25シーズンを最後に引退した。

 2014年12月14日におこなわれたトヨタ自動車戦(長良川)に途中出場してから、2025年5月10日の東芝ブレイブルーパス東京戦(秩父宮)まで、112試合に出場した。
 その間に国内最高峰リーグの名は、トップリーグからリーグワンへ。チーム名の前には、入団当時はなかった横浜の文字が付いた。

 ラストシーズンも全18試合中14戦に出場しているのだから、まだやれる。しかし、「引退については2〜3年前からそろそろかな、と思っていました」と言うのは、次のステージに踏み出すからだ。

 イーグルスには生え抜きの100キャッパーがいなかった。2024-25シーズンが始まる前に「あと2」と聞いたから、目の前の戦いをやり切ってブーツを脱ぐと決めた。
 昔から、指導者になる思いを胸に秘めている。

ラストゲームではゲームキャプテンを任された。(撮影/松本かおり)


 直近の2シーズンは3位、4位の好成績を残していたから、今季もプレーオフ(上位6チームに権利あり)に進出し、これまで踏んだことがない決勝の舞台で戦って頂点に立つ姿をフィナーレに刻めれば最高だった。
 しかし今季のイーグルスは6勝12敗、8位という成績に終わり、嶋田のラストゲームはレギュラーシーズン最終戦となった。

 主将の梶村祐介が怪我で戦列を離れていることもあり、嶋田は、その試合のゲームキャプテンを任され、準備期間からチームの先頭に立った。
 ジャージプレゼンテーションの時、涙を浮かべて仲間に伝えた言葉には誠実さが詰まっていた。

「最後にイーグルスのラグビーをしよう。きつい時、もう一回立ち上がるには気持ちしかない。チームをどれだけ思っているか、だ。チーム愛を伝えよう、見せよう」
 戦いを終えた直後のミックスゾーンで、キャプテントークについてそう話した。

 イーグルスは最終戦に28-49と敗れた。嶋田は最後までピッチに立つ予定だったが、右足の肉離れもあり、後半21分でベンチに下がる。その時、スタンドからの大きな声援に包まれた。
「なかなか勝てない頃から応援してもらっています」と感謝し、「これからもイーグルスを応援してください」と話す。

 試合後には仲間から胴上げされる。人生で初めてのことだった。
「まじか、と。負けはしましたが、みんなに高く上げてもらえました」
 あらためて、「このチームでやってきて良かった」と思った。

 試合までの1週間、チームメートたちはみんな、口を開くたびに自分のために勝ちたいと言ってくれた。
 他の選手も一緒に戦うのだし、照れくさいところもあったが、「ありがたいこと」と受け止めた。

強みは豊富な運動量。最後の試合でもよく走り、タックルして相手のボールも奪った。(撮影/松本かおり)


 試合後の記者会見では、沢木敬介監督が「シマのためにも勝ちたかった」と言った。
 嶋田自身は、2年連続でプレーオフに進出し、3位にもなった思い出を噛み締めた後、負けが多いシーズンの方が多かったと話し、「悔しい思いをしたことが、今後の人生で力になる。いいラグビー人生でした」とした。

 そして、そのことについてあらためて問われると、「報われなかったというか、目標としていたところまではいけなかったけど、その過程は頑張れた。指導者になった時に悔しさを味わった経験を伝えていけるかな、と思います」と続け、選手たちが悔しい思いをすることを少なくできるようにしたいと未来を語った。

◆少しは恩返しできたのかな。


 1991年5月21日生まれの嶋田は、京都の勧修中でラグビーを始めた。伏見工(現・京都工学院)で高校時代を過ごし、立命館大へ進学。同大学では、イーグルスでもチームメートとなった庭井祐輔(HO)、宇佐美和彦(LO/退団→現在は福島・聖光学院指導者)と同期だった。

 イーグルスへの加入に関しては、庭井、宇佐美とは別のルートで加わった。2人とは違い、次のステージでプレーを続けたいと思っていても、どこからも声が掛からなかった。
 そこで、ツテを使って当時の採用担当者を紹介してもらった。

 色良い返事はなかった。
 採用枠は埋まっているので、もし空きが出たら、との返事だった。
 しかし幸運なことが起こる。結果的に同期たちと一緒に、上昇途中にあったチームに加わることができた。

「どこからも声がかかっていなかったのに拾ってもらいました。このチームのためにと思って11年間プレーしてきて、100試合出場できた。少しは恩返しできたのかな、と。引退するのは、このチームでと思っていました。移籍なんて考えなかった。辞める時はここ、と決めていました」

 2018-19シーズンから2季は、庭井とともに共同キャプテンを務めてチームを牽引した。
 初年度は12位に沈み、2年目はコロナでリーグは不成立に。思うような結果を残せぬ上に不運もあって、精神的プレッシャーも大きかった。

相手チームからも、仲間からも労われた。「ファフやジェシーには、(君たちが)日本にいる間に自分がコーチになったら教えに来てくれ、と頼んであります」。(撮影/松本かおり)


 自身のパフォーマンスも納得できるものではなかったと記憶している。結果、ストレスによる突発性難聴となって入院もする。
 入団から7位、6位、7位、10位ときて、自分がチームの先頭に立ったら、なお順位が下がった。責任感の強い男が、普通でいられるはずがなかった。

 ただその翌シーズン、2021年度が転機となった。指揮官に沢木監督が就任。佐々木隆道FWコーチもチームに加わったのだ。
 11シーズンのうち、最初の6年と、その後の5年では、選手としてもまったく変わったと言う。

  イーグルスに在籍したうちの最初6シーズンは、外国人ヘッドコーチのもとでプレーしたこともあり、プレーについて、あまり細部を指摘されることはなかった。
 しかし、沢木体制となって個々に具体的な指導がおこなわれるようになり、変わった。

 2014年の入団は、日本代表キャップ66を持ち、イングランドのサラセンズでのプレーを終えた菊谷崇と同じタイミングだった。
 経験豊かな人と一緒にトレーニングする機会に恵まれて刺激を受けたほか、「運動量の多さは強み」と言ってもらい、自分の武器がなんなのか知ることはあった。

 しかし、新任の沢木監督に持ち前の運動量を生かして仕事量と質の高いプレーを重ねることを求められた。
 つまり、持っているものに満足するなということだ。そう理解し、チームの練習を終えた後に、佐々木コーチとスキルを磨く練習を重ねた。

 タックルに何度も刺さり、ブレイクダウンワークを連続させられるように自身を高め、「外国人選手に当たり負けるな」と指示が出れば、体重を増やして肉体を変え、さらにスキルも高めた。
 その考え方とアプローチは佐々木コーチが退団したあとも続いた。

ラストゲームを終えて人生初めての胴上げ。「このチームでプレーできてよかった」。(撮影/松本かおり)


 自分が長くプレーし続けられた理由を、「強みを理解して、改善しないといけないところに対し、正しいトレーニングを積み重ねた結果だと思う」とする。
「自分はどんな人間、どんな選手になりたいのか自分で理解し、そのためには何をやらないといけないのか」
 そこを知ることが大事だ。
「やったらやった分だけ自分に返ってくる。タックルが苦手だったのに、隆道さんと一緒にスキルをやり直して、いまは、それが自信のあるプレーになりました」

◆愛はチームを変えると知った。


 指導者になって、「やり続けたら変われる」という実体験も伝えていきたい。
 教員免許は大学時代(立命館大学スポーツ健康科学部)に取得している。採用試験を突破し、運良く母校で指導できるようになったら最高も、先のことは未定。自分の努力次第、縁次第だからコーチングの対象も明確にはなっていない。学生、あるいはトップチームのデベロップメント層をいまは想像している。

「若い選手には、当たり前のことをしっかりと当たり前にやることの大事さも伝えたいですね。普段の生活がグラウンドで出る。ラグビーは人間性が出るスポーツ。そう思うので」

 先生になりたいと思ったのは、中学時代の担任の先生の影響だ。フレンドリーなその先生とは仲が良く、お兄ちゃんのようだった。
「自分も、こういう人になれたらいいな、と思って」
 学生時代、そしてイーグルスと、影響力のある人と出会い、導かれた。今度は、自分が若い世代の可能性を引き出す番だ。

古いものが好きだ。「そういうものに魅力を感じて、服も古着ばっかり着ています」。長い髪は「好きなようにしているだけです」。今後の人生について、「自分らしく、楽しんでやりたい。それが自分のためでもあるし、これから僕と関わる人のためにもなる。(いろんなことに)愛情を持ってやっていこうと思います」。(撮影/松本かおり)


 チームや選手は、指導者によって大きく変わることを知っている。イーグルスは、沢木監督がやって来てから、チームや組織を愛する気持ちを前面に出すようになった。以後、上昇気流に乗った。
「試合に出られないメンバーが、出るメンバーを最大限サポートする。出るメンバーはそれを背負いながらプレーする。愛情あふれるチームになり、自分のチーム愛も深まりました。このチームのために、という気持ちは入った時から持っていましたが、それがどんどん強く、深く、濃くなっていった気がします」

 イーグルスでの記憶に残る出来事を、2022-23シーズンにサンゴリアスに勝って3位になった試合と、2023-24シーズンのプレーオフ、埼玉パナソニックワイルドナイツとの準決勝と言った。

「このチームに入った当時は、サントリーにボコボコにされて負けていました。何回も優勝したことがあるチームに対して、イーグルスが初めて公式戦で勝って3位になったのが、あの試合。いい思い出です」
 26-20と接戦を勝ち切った試合に嶋田は7番で出場し、80分ピッチに立った。
「9シーズン目にああいう結果を残せたのはチームの成長。みんなで一つひとつ階段を昇ってきたな、と感じました」

 もう一つの記憶に残る80分、翌年のパナソニックとのプレーオフ準決勝には、実は出場していない。17-20と惜敗したその一戦では、20番のジャージーを着たまま最後までピッチに立つことはなかった。

 その試合を忘れられないのは、悔しさからではない。
「みんな、いいパフォーマンス、いいチャレンジをしていました。よくアタックして、ディフェンスしていた。あの場に立って、僕もみんなと一緒に戦いたかった。出られなかったのはしょうがない。ただ、あの中に入りたかったなあ、と」
 指導者として、いいチームを作りそう。

2022年6月、エマージング・ブロッサムズの一員に選ばれて桜のエンブレムを胸につけた。(撮影/松本かおり)


 日本代表にはなれなかった。もっとも近づいたのは2022年6月に結成されたエマージング・ブロッサムズの一員に選ばれた時だったか。
 海底火山の大爆発で大きな被害に遭ったトンガのためのチャリティーマッチで、トンガ・サムライXVと戦った(6月11日)。

 ナショナル・デベロップメント・スコッド(NDS)に選ばれていた選手たちはその試合に出場した後、6月18日には、日本代表としてウルグアイ代表とテストマッチを戦う可能性が高かった。
 しかし7番で先発した嶋田は前半18分、相手にタックルした際に怪我。NDSから離脱することになった。

「代表には縁がないな。イーグルスでチームに貢献できれば、と思っていた時期もありました。あまり(代表選出への)欲はなかったのですが、ちゃんとしたジャージーではないけれど、(サクラのエンブレムが胸についた)あれを着ることができて、いい思い出になりました」

 教員やコーチは、教え子や選手たちが夢を叶えるための手助けをする人。
 サポートプレーの職人は、自分の果たせなかった夢を次の世代に託し、導く。



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