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【楕円球大言葉】弱くて軽くて楽しかった。
酔って「スクラム組もうぜ」となった記憶がある人も多いだろう。(写真/ジャスラグ編集部)

【楕円球大言葉】弱くて軽くて楽しかった。

藤島大

 2月15日。次の次の日曜。ハーキュリーズと北海道バーバリアンズのぶつかる全国クラブ大会ファイナルが熊谷で行われる。と、書き出して、詳細を調べようと、日本協会サイトの「大会・試合情報」を開いた。「15人制日本代表」から始まり、ずっと進んで「中学」「高専」へいたり、おしまいの「その他」をクリックすると要綱は見つかった。

「クラブ」のくくりでなく「その他」。ちょっと冷たいなあ、と、感じた。ま、更新というか登場の頻度の事情もあるのだろう。

 1980年代。東京都内にジャッカルというクラブがあった。相手の持ち込んだボールをひったくる技術との結びつきはない。あのころ「ジャッカル=スティール」の呼称は存在しなかった。

 あらためてジャッカル。スポーツニッポン新聞東京本社のチームである。そして、ここが大切なのだが、正式な表記は「弱軽」。しゃれている。きっと見出しをつけるセクションのエース級による命名だろう。
 
 スポーツ新聞社の従業員はおおむねラグビーにも詳しい。それと自分がしっかり走ることはまったく無関係なのだと、みな、乱れる息や長いトイレ籠城をもって証明した。もっともグラウンドではなく酒場で結束を固めるという競技の精神についてはワールドクラスであった。

 かつて草の根クラブは、そういうふうに、あちこちで活動していた。

 おおむね30歳のあたり。過ぎた青春がもう伸ばした腕の指の先っぽでもさわれなくなって、路地裏の行きつけで連日の深酒、やがて無頼の夜が明ける。
 どうする。普通は家に帰って眠る。ところが、どういうわけか、ラグビーを始めようと考えた男どもがいた。きっかけは酔余の何者かのつぶやき。

「なにか、おもしろいことはないのか」

クラブラグビー全盛の時代は酒場でチームが結成されることも少なくなかった。(写真/ジャスラグ編集部)


 1976年の某月某日。東京の吉祥寺。店の近くの井の頭恩賜公園へふらふらと歩いた。ボールは? 丸めたジーンズ。ひとりは下着で駆けたと想像できる。
 後年、東京都大会で優勝につぐ優勝、曼荼羅クラブはこうして生まれた。聖なる酔っ払いの伝説である。

 1990年前後だろうか。荻窪PINKSはひととき心地のよい風を吹かせて、ほどよく、どこかの空へ吸い込まれた。
 住宅街の喫茶店「騎西屋」でぼんやり過ごす常連たち(筆者もひとり。徒歩1分のところに下宿していた)に近隣の都立高校で楕円球に親しんだ数人がいて、なんとなく結成される。

 40歳過ぎくらいのマスター、河童さんは、かつて、かの唐十郎の率いる状況劇場の役者であった。
 記憶(いささか不確かかも)ではこんな一言を聞いた。受験浪人を経て有名大学の難関学部にめでたく合格。なのに。
「入学して1カ月くらいかな。観ちゃったんだよね。芝居をさ」。ほどなく中退もしくは除籍、新宿の紅いテントへ。
 コーヒーを淹れても、目の力は深い。悪事には絶対手を出さない人柄なのに、いますぐ痩せっぽちの殺し屋の役ならできそうだった。
 
 結成メンバーは誓った。「河童さんがトライするまでは存続」。初陣、対戦相手を忘れたのに、次の一幕なら鮮明だ。何を間違えたか、ラグビー未経験のだれかが、チアリーダー(チアガールと称した)を呼んだ。どこかに申し込むと有料で派遣してくれたのだ。

 観客数人の黒土のグラウンドのハーフタイムに「場違いを絵に描くとこうなる」という奇観は現れた。手の飾りを振りつつ戸惑うプラスティックの笑顔、その統制のとれた列はちょっぴり哀しく、妙に素敵だった。

 PINKSはよく武蔵野美術大学と戦った。いつか東京・小平の学内グラウンドでの試合に出場した。学生時代の鍛練のなごりがかすかにあって、15番の位置より狙ったタッチキックはぐんぐん遠くへ。なんと学舎の窓を割った。

 気まずいか。いや。芸術を学ぶ若者は、ラグビー部員のみならず、あたりを歩く一般学生も実におおらかだった。困った態度など皆無、なんだか嬉しそうではないか。あっ、生まれ変わったら美大生になりたいと思った。いまでも思う。

 最近もたまにテレビドラマでちらり顔を見る「河童さん」ことウイングの山口河童、ジャージィ姿のショーツより突き出た細くて真っ白な脚がかえって迫力をかもした。生涯ノートライ。わがPINKSは自然解散した。

 1996年にスーパーラグビーが始まった。アマチュア競技は「プロ容認」の階へと昇った。すると王国のニュージーランドでも、たとえばクルセイダーズやチーフスやハイランダーズなどの「スーパークラブ」に最上級選手はもれなく収まるようになる。必然、草の根とプロ、究極であるオールブラックスとの距離は広がる。

 日本国内でも、ラグビーが「する」から「見る」スポーツの色を濃くして、いつしか酒場発祥系チームの隆盛はかすれた。
 土があり根があって花も咲くはずが、富や人材のひしめく頂点のほうから下部構造を定める。歴史の必然か。あるところで引き返すべきか。弱軽の時代は、ただ懐旧にとどまるのか。そこが問題だ。

2007年のワールドカップ、ニュージーランド×ポルトガル(108-13)でゲームキャプテンを務めたジェリー・コリンズ。
国旗を持つ少年の肩に手を添える。(Getty Images)


 ゆえに以下の逸話はいつまでも愛される。その前に予備知識を。英国のバーバリアンズは各国のスター級を招いて国際ゲームに臨む。伝統のルールに「所属クラブのソックス(ストッキング)着用」がある。

 ジェリー・コリンズ。オールブラックスで48キャップ、猛ヒットでとどろくフランカーである。2015年6月、南フランスのベジエの高速道であんなに野太そうな命を落とした。2011年からの2シーズンはヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)に在籍している。

 2007年のワールドカップにおいてオールブラックスはフランスとの準々決勝に不覚をとる。ジェリー・コリンズは敗退後、姿を消し、なぜか、イングランド南西部のデヴォンの街角のスポーツ用品店に出現した。そこでスパイクを買い、なにゆえだろう、バーンステイプルというアマチュアのクラブを訪れ、どうしてだか2軍のゲームにいきなり出場した。

 ヤマハ入団後、本人に顚末を話してもらった。いわく「あんまり、おすすめはしません。プロの契約規則のせいで罰金を取られました」。

 デヴォンへ舞い降りて数週間後、バーバリアンズの一員として世界チャンピオンの南アフリカとトゥイッケナム競技場でぶつかった。ソックスは? ハリケーンズ? 違った。テレビカメラがとらえたのは、イングランド南西地区第2区2部のバーンステイプルの赤白の柄なのであった。



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