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【楕円球大言葉】JR鉄道ロケット号。
12月13日のリーグワン2025-26の初戦(ディビジョン2)、NECグリーンロケッツ東葛はレッドハリケーンズ大阪に31-14のスコアで勝利。試合後、ゲームキャプテンを務めた亀井亮依がファンへ挨拶。感謝の気持ちを伝え、今後も一緒に、と話した。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】JR鉄道ロケット号。

藤島大

 ロケットとトレイン。どちらにもロマンを感じる。子どもの夢は、そのまま老いてもかすれぬ憧憬であり続ける。
 噴射装置で飛翔。忘れがたき鉄路の響き。人間、どこか遠くへ連れて行ってくれるものは好きなのだ。

 本年8月、NECグリーンロケッツ東葛の今季限りでの譲渡の方針が明らかとなる。もったいない。悔しい。一報が届いて以来の感傷はさながら「のどに残る魚の小骨」であった。目の前の出来事につい忘却しても、チクリ、痛みは消えない。

 このほど譲渡先はJR東日本であると発表された。いよいよサヨナラは迫り、やはり、さみしい。

今季開幕戦、対レッドハリケーンズ大阪戦でのWTB尾又寛汰(写真左上)、SH藤井達哉(写真右上)、マン・オブ・ザ・マッチのWTB後藤輝也(写真左下)。当日は5485人のファンが試合を見つめた(写真右下)。(撮影/松本かおり)


 2003年度。リーグワンのマイクロソフトカップを制覇。04、05年度は日本選手権連覇を成した。
 列島の原風景のごとき力持ち、1番の久富雄一。球狩る硬骨、7番のグレン・マーシュ。万能かつ雄大、ナンバー8の箕内拓郎。全身凶器のタックル、9番の辻高志。小細工に走らず、堂々の衝突バトルを楽しむ。首都圏のクラブなのに東北や九州の匂いがした。
 おもに中年男性ファンが、秩父宮の観客席で「エヌイーシー、エヌイーシー」と短く低い音で連呼する。あれも悪くなかった。

 グリーンロケッツで思い出す逸話がある。2003年某月某日。千葉県の某所某酒場。秘密の「蠍クラブ」の噂を耳にして現場へ向かった。字画の多い蠍はサソリである。ウォトカのボトルの底に真っ黒なそいつが揺れた。

 NECラグビー部の練習は木曜はオフ。したがって水曜夜に会員は集まる。
 メンバーのリストをなんとか手に入れた。箕内。マーシュ。ジャパンのセンターとして同年のワールドカップ出場のジョージ・コニア。若手の有望株に流通経済大学出身のバックス、ブレンデン・ニールソン、現在の仙台育英高校ヘッドコーチである。

 会則はひとつ。ワンショットの「蠍ウォトカ(スコーピオ)」×3、壜ビール×2を干すべし。夜の街での聞き込みの結果、ミウチの記録は「41秒」とわかった。
 以下の付則があった。
「サソリについては摂取を強要しない。ただし自発的に食するのなら歓迎する」

NECのレジェンドの一人、現在レッドハリケーンズ大阪所属の箕内拓郎アシスタントコーチが試合前、グリーンロケッツのグレッグ・クーパー ヘッドコーチのもとへ歩み寄る。(撮影/松本かおり)


 ある日。だれかに連れられた若手部員が酔余、オールブラックスのハカを舞った。ニュージーランドのマオリの血を引くタフガイ、コニアがたしなめた。

「ボーイ、それを遊びでしてはならない。殺し合いの前にだけ許されるのだ。いまから、いっぺんだけ本物を見せてやる」

 細く狭い店内。ひとりのハカ。秒針が何周かすると、テーブルと椅子は壊れていた。

 そんなチームだった。仮にアルコールはさっぱりの細いウイングがいても、蠍なら噛み砕いただろう。そして実際に強かった。
 
 そんな野太いストリーをJR東日本は引き継ぐ。あらためて「Japan Railways」。かつての国鉄だ。張り巡らされた鉄道網のごとくラグビーを長く広く支えた。

 確か、このへんに。机上の紙の瓦礫を崩しに崩して意義深い一冊は見つかった。

『鉄道ラガーメンの流した汗、涙、そして感動』(国鉄、JRラグビーの歩みを考える会)

 副題には「国鉄・JRラグビー 90年の物語」。2016年に有志のまとめた貴重な記録である。

 100年前に日本の鉄道ラグビーは始まった。1925年、大正14年、国鉄本省にて創部。本省とは中央官庁の本部を意味する。2年後に東京、大阪、門司の各鉄道局が続いた。

国鉄・JRラグビー90年の物語が詰まった一冊、『鉄道ラガーメンの流した汗、涙、そして感動』。


 1930年、昭和5年には「全国鉄大会」が催された。
「これは全国規模のラグビー大会として我国で初めてのもので、全国各地の実業団チームの発展に大きな刺激を与えた」(前掲書)
 いくらかこじつけるなら後年のNECラグビー部の躍動とも無縁ではない。

 国鉄ラグビーはスケールが大きい。大都市のみならず地方の隅々にまでネットワークは届く。前述の第1回全国鉄大会開催時の職員数は「およそ20万以上」で「日本最大の官営企業」(同)。やがて東北であれば秋田、盛岡、仙台というように各地に楕円の情熱は根を下ろす。

 敗戦翌年の1946年秋。国鉄大会はさっそく西宮競技場で再開した。門司、大阪、名古屋、東京、仙台など9チームが参加、札幌鉄道局が頂点に立った。
「それでも列車は動いている」。あのころの人々はそう言った。戦争に負けても鉄道は走る。ならうのなら「それでもラグビーは始まった」だ。

 1970年前後の日本代表監督、大西鐵之祐は、当時の国鉄ラグビー連盟の関係者に「どこかに190㌢のロックはいないか」と聞いている。1969年の大会には全国24チームが集っている。もしかしたら知られざる逸材がひそんでいるかもしれない。

 1987年4月。国鉄は分割民営化された。人員削減や組織再編成や新業務への移行など環境は甘くなかった。同年9月20日の菅平高原。されど新生のJR各社のチームは集結した。その数13。まさに「鉄道ラガーメン」の底力だと思う。

グリーンロケッツの開幕戦の舞台となった柏の葉公園総合競技場には、JR東日本の我孫子乗務ユニットがブースを出していた。写真左は中瀨勇人さん(首都圏本部 松戸統括センター我孫子乗務ユニット副長)。右は矢畑豊さん。矢畑さんは中瀨さんと同じ我孫子乗務ユニット所属で、JR東日本レールウェイズの監督を務めている。(撮影/松本かおり)


「グリーンロケッツ→JR東日本」は少なくとも文化の側面において唐突ではない。現時点での強化についての楽観や悲観に意味は薄いだろう。ラグビーはラグビーだから今季、いま進行中のディビジョン2でロケットがどこまで飛距離をかせぐかだ。そのことは新路線のトレインの行き先に関係してくる。

 おしまいに『鉄道ラガーメンの流した汗…』より。
 1983年秋。菅平の第25回記念大会での国鉄総裁・高木文雄の説話が再録されている。

「ラグビー部の諸君よ。諸君の情熱をラグビーに全力投入したまえ。諸君は学ぶものがあることを、悟るものがあることを体得できるに違いない。悟ることが出来たら声高らかに痛快を叫び、心から笑いなさい。その輪がラグビー部の外に次第に広がるにつれて、お客様から祝福を受けることができる職場が、全国鉄に展開することになる」 

 東京帝国大学卒業の元大蔵官僚は、慶應の幼稚舎で楕円のボールと戯れたそうだ。総裁としての評価の知識はない。ただ、このスピーチには迫力がある。「ラグビーと仕事の両立を」なんて言わないところがよい。




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