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【楕円球大言葉】狂越粘速繋前の話。
『狂』を掲げて2025-26シーズンに臨む筑波大。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】狂越粘速繋前の話。

藤島大

 ひとつの漢字で今季のクラブのモットーを表す。9月1日。関東大学ラグビー秋季公式戦開幕前共同会見でそんな企画があり、対抗戦Aとリーグ戦1部のそれぞれ8校ずつの主将がボードに記した。

 もしかしたら「殺」だとか「死」の開陳もあるか。いくらかドキドキしたが、さすがになかった。
 ただし筑波大学は「狂」。教育系らしく「乱れず正しく」の学風と決めつけていたので、なるほど、あと足らぬのはここか、と、昨年度の停滞をふまえた課題の設定がよくわかった。

 まあ一文字は酷だ、と思う。自分ならどうする。わからない。好きな漢字は「麦」や「果」や「灯」あたり。ひとえに美の観点にもとづくもので、これではスポーツの場に出番はない。

 狂。きょう。個人的には「凶」が浮かぶ。大学のころ、春の練習試合で、やせっぽちのフッカーの先輩がゲーム主将を務め、開始前の円陣で言った。

「全身を凶器に」

 静かな口調に本気がにじんで、末席のへっぽこ選手も感動した。こういうことは瞬時に細胞に刻まれるらしく、卒業後にスポーツ記者になって、さまざまな競技のファイターの描写で「凶器」を無意識に用いてしまう。

 理の筑波が狂を得たら対戦校はうれしくあるまい。そしてラグビーにおける「狂う問題」の核心とは、きっと、「狂気は人為にあらず。そこまでの努力や意思のもたらす現象」というところにある。

 興味深いのは流通経済大学の「越」。こ・ゆ【越ゆ・超ゆ】動作・状態がある限界を上まわる意。卓上の古い広辞苑では語釈の④に「まさる。ぬけ出る」とあった。
 越は物理的に「こえる」。超は抽象を含んで「こえる」。RKU、流通経済は前者をとった。ゴールラインを越す。すなわちトライ。年を越す。つまり全国4強進出。というように具象が浮かぶ。そこがよい。文筆業の身には、わが「超びいき」を再考させてくれて、ありがたい。

流経大(写真左上)は『越』、法大(写真左下)は『速』、帝京大(写真右)は『粘』のスピリットで戦う。(撮影/松本かおり)


 帝京大学は「粘」を掲げた。ちょっと待った。その字はチャンピオンよりもチャレンジャーにこそふさわしい。いや。粘りなくしてトロフィーなし。その意味で正しい。
 耐えに耐えて辛抱また辛抱、観客も視聴者も感動を覚え、なお頂点に届かぬ例ならある。個の体格や経験や技量の比較において、あまりにも開きがあれば、やはり負ける。
 ただし、ひたむきさや勝利への執着をはなから放棄して能力のみで覇者となることもない。では「粘」の正体とは。「狂」と同様に「意図するものでなく、わき上がるもの」のはずである。

 法政大学の「速」は「持たざる」を「強み」へ変換しようとの決意を示す。リーグ戦1部でいわゆる海外の留学生を擁せぬ唯一の存在。そこで高速の攻守に活路を定める。
 挑むラグビーあって「速さ」とは「極度の速さ」と同義でなくてはならない。奇策を奇策とせぬ覚悟だ。レフェリーの笛がなる。P獲得。あっ、もう9番がタップで攻めた。劇画のごとき仕掛けを自動化できて、なんとか「ビジーなほどクイックでファスト」の花は咲く。

 ファンには「伝統のスタイル」への郷愁を抱く権利がある。1964年度から67年度の全盛期、法政はまさに高速展開で鳴らした。
 当時の好敵手の早稲田大学は、浅いラインを敷き、パスを受ける前の伸縮の動きで防御の裏をとった。足が遅くても抜いてみせる方法だ。かたや法政は深めの配置に弾丸のようなパスを駆使、斜めに振り切ろうとした。「猛」のつく反復鍛練と身体能力の合わせ技であった。
 競技ルールはどしどし更新され、なにより集まり散じて人は変わる。それでも2025年の太陽と青空色のジャージィに「速。それも極度の」を見たい。

 早稲田と慶應義塾大学と立正大学は「繋」でそろった。スポーツ新聞の駆け出し記者ころのサッカーのリポート記事に「連繋」と書くと、社内で「連係」に直された。魔の「常用漢字」のせいである。意味は同じだ。

『繋』で揃った早大、慶大、立正大(写真左上、右上、左下)。明大(写真右下)は当然『前』。(撮影/松本かおり)


 繋。つらなり、つながる。公式戦の芝の上の「連繋」のみが対象でなく、さまざまな背景の全部員が、ひとりひとりの競技力の差によって、つらなりの断ち切られぬ環境を築かなくてはならない。築いたクラブがうれし泣きを許される。
  
 明治大学は、待ってました、やはり「前」である。前へ。1929年から1996年春まで紫紺の集団を率いた終身監督、敬称略で北島忠治その人の生き方を重ねて、不滅の唱えとなった。

 史実として、1950年代の卒業生の約20年前の証言をあらためて紹介する。
 いわく「『前へ』は新しい。本来は『まっすぐ』。北島先生が色紙に『前へ』としたためて広がったのではないか」。まっすぐの奥深さは「相手ゴールラインへ垂直との解釈を超えて、どの角度であろうと、仮に斜めでも、ランニングのラインが直線であればよいことだ」。
 
 1939年度の名主将、フランカーの新島清も著書の『殺身爲仁』でこう述べている。

 まっしぐらに押せ。ボールを持ったら真っすぐ走れ—北島ラグビーの顔、というより生命そのものである。忠さんは、半世紀にわたって「一直線ラグビー」を貫いてきた。  

 新しいシーズンの明治も「前へ。まっすぐ」を攻防の背骨にすえる。すえてほしい。モダンなアタック理論では、ときにシステムに従い、ふくらんだり、すり抜けたり、よけて走らなくてはならない。
 でも。もしボールを手にする人間が「かわす」か「一直線」かの判断をとっさに迫られたら。選択はおのずと後者に定まる。なんて勝手に願うのも学生ラグビー観戦の楽しみである。








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