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8月7日、南アフリカの喜望峰にあるディアス・ビーチを見下ろす高台に、一つのベンチが設置された。ベンチの背もたれには、プレキシガラスのプレートが取り付けられており、昨年、この海で遭難したメディ・ナルジシがイタズラっぽく微笑んでいる。ラグビーボールを手に走っている姿も描かれており、メッセージも添えられている。
「かつていた場所には、お前はもういないが、私たちのいる場所すべてにお前はいる。愛しているよ…」
「現地の領事と副領事の助けを借りて、すべてを自分たちだけで進めました。ここは保護区域なので、記念碑を設置する許可を得るのに6か月も交渉しなければなりませんでした」とメディの父ジャリルは説明する。
息子に会うために、妻のヴァレリーと娘のイネスと共に1年ぶりにこの地を訪れた。
この旅行費用は、メディが所属していたスタッド・トゥルーザンが立ち上げた募金活動によって賄われた。「私たちに寄り添ってくれるのはスタッド・トゥルーザンだけ」とジャリルは言う。昨年、彼らがメディの荷物を持って南アフリカからトゥールーズのブラニャック空港に到着した8月16日、彼らを迎えたのはスタッド・トゥルーザンであって、協会からは誰も来ていなかった。フランス協会からも今回の渡航費用を負担するという申し出はあったが、断った。
「私がラジオで、メディを追悼するために南アフリカへ行くと話したら、彼らは慌ててメールで旅費を支払うと申し出てきた。今さら何かしたいとでも? 我々はウェールズ戦(1月31日、スタッド・ド・フランスにて)での追悼以来、彼らの姿を見ていません。その追悼でさえ、私たちが自ら求めて実現したものなのに、今頃になってまた現れた。信じられない」
「U18のスタッフのメンバーも同じです。電話をかけてきた者は一人もいません。12人の大人の中で、メディを助けに行こうとした者は一人もいなかった。彼らは、私たちに連絡を取らないようにという協会からの指示があったと言い張り、その陰に隠れて人生を続けているのです」
ジャリル・ナルジシは決意を固めている。「彼らに真実を語らせなければならない。私たちは諦めない」
◆悪夢の始まりは、「ここでリカバリーする」の指示。
ちょうど1年前、2024年8月7日、スタッド・トゥルーザンの育成部門に所属するSHメディ・ナルジシ(当時17歳)がこの海で離陸流に飲まれて消息を絶った。メディはフランスU18代表として、南アフリカで毎年開催されているU18インターナショナルシリーズに参加するために現地に滞在していた。参加国は、南アフリカ、イングランド、アイルランド、ジョージア、そしてフランスだった。
8月12日から始まる大会に先立ち、ウェスタン・プロヴィンスのU18と準備試合で勝利し、幸先の良いスタートを切った。翌日はオフで朝からアシカを見て、ペンギンのいるビーチに行き、昼食をとり、午後は喜望峰に向かった。灯台を見学した後、バスが待っている駐車場へ向かっていた。そこからビーチへと続くハイキングコースが伸びていた。
「S&Cコーチのロバン・ラドージュが『ここでリカバリーをする』と言いました。僕たちは用具を持っていなかったので、少し驚きました」と、PRノア・ティンニレッロは説明している。
ラドージュは、その日の午前8時14分に、ツアー中の連絡用に作られたWhatsAppグループに、次のようなメッセージを投稿していた。
「本日、冷水浴必須。選択肢は2つ。①喜望峰のビーチで行う。ビーチに降りるのに100段ほどの階段あり(実際は200段余)。タオルと水着を用意すること。②ホテルに戻ってから、17時頃に行う」
しかし、調査資料によると、このメッセージを読んだ選手はごく少数だと「レキップ」紙は伝えている。
「水の中にいる間、特に指示はなく、完全に遊びでした。ロバン(ラドージュ)はウェットスーツを着用し、ビーチで見つけたブイを持って、岸から10mほどのところにいました。僕たちが遠くに行きすぎないように『監視役』をしていました」と選手の1人は調査に答えている。
2人目のスタッフ、スポーツサイエンティストのアクセル・デュポンも、ラドージュに加わり安全な範囲を確保した。「腰までの深さで、波が崩れて泡になっているエリアにいるように」と指示があった。
15分ほど水中で過ごし、ラドージュはセッション終了を告げた。しかし、何人かの選手が「あと5分だけ延長させてほしい」と懇願する。彼らは楽しんでいた。延長は認められた。
「その時、メディ(ナルジシ)が僕に飛びついてきて、『バティスト(ヴェシャンブル)のところに行こう』と言いました。彼は胸の下まで水に浸かっていました」と、ティンニレッロは語る。ヴェシャンブルは、彼らから30mほど離れたところにいた。「メディに『僕は行かないよ』と言いました」と、ティンニレッロは続けている。
ラドージュが「5分経過した」と告げた時、「『メディはどこだ?』とみんなが言い始めた」と、ある選手は語る。その間に、身長202センチのヴェシャンブルはビーチに戻ってきていた。しかし、SHのメディ(168センチ)は、すでに波にさらわれていたのだ。
「メディが流されていくのが見えた。メディは面白いことをするのが好きだったから、最後の波に乗ろうとしてふざけているんだと思いました。でも、彼が戻ってくるのに苦労しているのを見て、これは冗談ではないと気づきました。大人たちは何をすればいいのか分かっていないようでした」と別の選手が証言する。
「どうしたらいいか分からず、立ちすくんでしまった」スポーツ省から派遣された監査チームに対し、アクセル・デュポンは述べている。
しかし、当時16歳だったFLオスカー・ブテーズは迷うことなくメディの救助に向かった。
「セッションが始まった時と比べて、海の荒れがひどくなっていた。波は大きくなり、頻度も増えていた。メディに追いつくと、彼は『助けて!』と叫んだ。僕は彼を抱え、背中に乗せて岸に向かって泳ぎ始めました」
フランス協会の内部調査に対し、ブテーズは証言を続けている。「波と波の間は、僕はかろうじて足が着く程度でしたが、メディはまったく足が着いていませんでした」

一方、ティンニレッロは、別のルートで2人を追おうとした。「海の方を見ると、オスカーがメディに向かって泳いでいました。メディは右側の岩の向こうにいました。僕は岩の方へ歩いてメディに向かおうとしたけど、流れがとても強く、膝までしか水に浸かっていないのに転びそうになるほどでした」
ティンニレッロは続ける。「オスカーとメディに近づいても、近づいても、2人は遠ざかっていきました。肩に波を受け、岩にしがみつかなければならなくなりました。その岩は滑りやすく、波がその上を越えていきました。水の勢いに勝てず、僕はパニックになり、泳いでビーチに戻るしかありませんでした。水中にいたのはオスカーとメディだけで、ロバン(S&Cコーチ)はブイを投げようとしていましたが、波で戻されてしまうのです」
「最初は泳ぐことができていました」と、ブテーズが証言を続けた。「一つ目の波を被ったときは大丈夫でした。水面に上がって、メディに『息を吸って』と言いました。その3、4秒後、2つ目の波が来たあと、少しうしろを振り向くと、高さ5~6メートルの水の壁が見えました。僕たちはその波をまともに受けました。メディは僕から手を離してしまい、僕もめちゃくちゃに流された。水中に20秒ほどいたあと、なんとか水面に上がることができました。振り返って周りをくまなく探しましたが、もうメディの姿は見えませんでした。その後も何回か波を受け、何度もひっくり返されました。そして、岸に戻るために必死に戦いました」
2024年8月7日午後3時15分、公式の気象報告によると、当時の波の高さは3~4メートル、うねりの周期は5~6秒。風速は時速25キロメートル、突風時には時速35キロメートルに達していた。
◆真実は誰の口から出たものか。
「コーチたちは走り回っていて、パニック状態でした」と、ティンニレッロは続けた。
一連の調査で聞き取りを受けた選手やスタッフの中で、ビーチへ降りる階段の入り口の脇に立っている、ディアス・ビーチが遊泳禁止で危険であるという標識を見たと認めたのは、たった一人だけだった。それは理学療法士で、彼はビーチには降りず、選手たちが泳ぐ予定だったことも知らなかったと捜査官に話している。
スポーツ省が指揮した調査の中で、今回の遠征には同行していなかったU20フランス代表チームのヘッドコーチ、セドリック・ラボードは「選手の一人から直接証言を得ており、そこでは指示が守られず、選手間で波に立ち向かうというチャレンジがおこなわれていた」と語っているが、子どもたちは、その危険がどれほど大きいかについて、誰も事前に知らされていなかった。
「大人たちがそこに行っていなければ、子どもたちが海に入ることはありません。それが引率の基本中の基本です」とメディの母・ヴァレリーは指摘する。
ビーチでは、スタッフたちが駆け回り、他の選手がメディを探しに行こうして海に入ろうとするのを制止したり、メディの姿が少しでも見えるようにと岩に登った選手が怪我をしないよう注意していた。
波の向こう側には、水の青さと泡の白さしか見えなくなった。砂浜では、みんな茫然自失となっていた。何人かが座り込み、泣き崩れた。誰も口を開かない。数人が自分の荷物を片付け始め、小さなグループになってバスに戻った。
バスの中には、一人の仲間を失った重苦しい沈黙が漂っていた。バスが走り出す。一つの座席が空いていた。バスが西へ、ホテルのあるケープタウンへと向かい始めると、選手たちは全員、左側の座席に移動し、海を見つめた。
当初の予定では、このリカバリーセッションはホテルのプールで行われるはずだった。しかし、前日のスタッフのミーティングでラドージュが「このビーチでやろう」と提言した。ラドージュは、この提案がスタッフ全員、特にこのチームのヘッドコーチで、南アフリカ遠征団の責任者であるステファン・カンボスによって承認されたと主張している。
一方、カンボスは、このアイデアに何度も反対したと主張。事情聴取でも、カンボスはラドージュを非難し、彼の命令不服従を強調している。
帰国後、このチームのスタッフは全員職務停止処分になった。危険なビーチとして有名なディアス・ビーチでのリカバリーセッションの発案者のラドージュ(47歳)は、5月16日に過失致死の容疑で訴追され、司法管理下に置かれた。さらに、カンボス(54歳)も同様の理由で、6月2日に司法管理なしで訴追された。
彼らは、6月24日にアジャンの予審判事のオフィスで対決した。
「やめるように言った」と主張するカンボスに、予審判事が「選手やスタッフの供述調書には、あなたが『このセッションは絶対にやめろ』と言ったという報告が一切ないのはなぜですか」と問い詰めた。
カンボスが「ロバン(ラドージュ)がこの企画を口にした際、『少しでもリスクを冒すことは絶対にありえない』と私は言いました。私の中では、これは明確かつ最終的な拒否でした」と言えば、ラドージュが「彼が私に反対を表明したことは一度もありません」と反論。
カンボスが「フィジカルコーチが、若者たちが海に入ることを単独で決めることがあるでしょうか?」と訴えると、ラドージュは「そんなに危険だと察知したヘッドコーチが、WhatsAppグループにメッセージで介入したり、遅れてビーチに着いた時に全選手に海から上がるよう命じたりしなかったのは、なぜなのでしょうか?」と言い返す。
2人は現時点では推定無罪だ。カンボスの弁護士は依頼人の訴追を正当化する要素が存在しないとして訴追取り消しを求めて、無効の申し立てをしている。また、昨年9月12日に発表された協会の内部調査報告書で、本件の責任はU18フランス代表スタッフに責任が指摘され、特にラドージュと共にカンボスの責任が問われている。これに対してもカンボスはフランス協会に対して名誉毀損で訴えを起こしている。
一方、メディの遺族は南アフリカの弁護士を通して、現地でチームの滞在の手配を請け負っていたフレデリック・プラシェシに対しても、長年南アフリカ在住で、このビーチの危険性を知っていたのに子どもたちが海に入ることを止めなかったとして、訴訟を起こす手続きを進めている。
さらに、彼らの怒りの矛先は、フランス協会、そしてフロリアン・グリル会長にも向けられている。
※後編へ続く。