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【Feel in Chile vol.2/若きコーチ、世界を歩く、書く】モアイ像の横にもラグビー。
グラウンドのすぐ向こうにはモアイ像が立つ。(筆者撮影、以下同)

【Feel in Chile vol.2/若きコーチ、世界を歩く、書く】モアイ像の横にもラグビー。

中矢健太

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 世界で最も隔離された島だと言われるチリ領イースター島。チリ本土から西に3,700km離れており、島の象徴「モアイ像」を多く含むラパ・ヌイ国立公園は1985年に世界文化遺産として登録されている。

 そんな絶海の孤島にも、ラグビーがあった。

※「イースター島」という呼称は、1722年にオランダの探検家ヤコブ・ロッゲフェーンが復活祭の日曜日にヨーロッパ人として初めて島に上陸したことに由来する。ただ、島民は元々の呼称である “Rapa Nui”(ラパ・ヌイ)に誇りを持っており、本稿では敬意を込めて「ラパ・ヌイ」で統一する。

 ラパ・ヌイはハワイ、ニュージーランド(マオリ語:アオテアロア)と結ばれる「ポリネシアン・トライアングル」の東端とされ、この巨大な三角形にはサモアやタヒチなど太平洋の国や島々が含まれる。言語や伝統、風俗を共有する文化圏となっており、そこには古代から醸成されてきた独自の文化が存在する。

 例えば、島の代表者の決め方は独特だ。毎年2月中旬には2週間もの間、島をあげて行われる「タパ・ティ・ラパ・ヌイ」という重要な文化祭がある。氏族単位で競い合うこの祭りは、スポーツはもちろん、衣装作りやペイント、踊りなどさまざまな種目がある。中でも、カヌー+合計約40キロのバナナを担ぐマラソン+水泳の3パートで構成される「ラパ・ヌイ型トライアスロン」は目玉競技だ。全ての種目はいわばポイント制となっており、勝った士族を代表する女性は「女王」として1年間、島の統治権が付与される。

ラパ・ヌイ初のコンドレスに選ばれた経験を持つニキ(右)、スポットコーチのベンハ(左)


 ラパ・ヌイでは、このような祭りやスポーツは重要な役割を果たしており、島民同士を繋ぐ一つのコミュニティとなっている。島に居住区は1箇所しかないので、もともと全員が知り合いのような環境ではあるが、お互いの繋がりをより強固にする。

 後日、縁あってチェスの関係者に話を聞く機会があった。近年では、ラパ・ヌイへの移住者も増えている。彼女曰く、島で生まれた者と移住してきた者、その間にも強固な関係を生むのが祭りやスポーツ、ボードゲームなどの文化なのだ。彼女自身もアルゼンチンからの移住者で、チェスを通じてさまざまな人と繋がることができたという。

 今回『Feel in Chile #1』で取り上げたサンティアゴのラグビー専門店LA OVALADAのオーナー・ホワニ、ガブリエルから紹介を受け、ラパ・ヌイのラグビー関係者とコンタクトを取ることができた。

 飛行機が着陸して電波が入ると、メッセージが届いていた。なんと、その人物は空港まで迎えに来てくれているというのだ。外に出ると花飾りとバナナを持って迎えてくれ、ラノ・カウという火山のカルデラ湖や海辺など、島を案内してくれた。

 ニキ・マハ(Niki Maha)。ディズニー映画の登場人物のような分厚い胸板に大きな身体、くっきりと日焼けした32歳の彼は、チリラグビー史上、ラパ・ヌイから初めてチリ代表、コンドレスになった選手でもある。現在、ラパ・ヌイで小学校の体育教師をしながら、自身のラグビーアカデミーを運営している。毎週月曜日の夜に開かれている彼のアカデミーを見学させてもらえることになった。

「写真撮って!!」とカメラ大好きな子どもたち。チェックも忘れない


 午後6時、島唯一の総合グラウンドである “Estadio Koro Paina Kori” で練習が始まった。さすがチリだけに、夕方ごろから複数のサッカーチームが練習していた。ラグビーの練習もまた、別のサッカーチームと半面ずつ分け合っての実施となった。グラウンドの目の前は海で、道路脇にいる大きなモアイ像が選手たちを見守っていた。

 アカデミーは9、10歳前後の子どもたちで構成されるジュニアと、中学生以上のシニア2つの部門がある。この日の参加者は総勢40名ほど。たまたまベンハ(Benja Quezada)という選手がラパ・ヌイ出身の妻と帰島しており、彼がシニアを、ニキがジュニアのコーチとして指導にあたっていた。ベンハは普段、サンティアゴ郊外のオールド・マックス(Old Macks)というディビジョン1のチームでプレーしている

 また、ラパ・ヌイにはハカならぬホコ(Hoko)という伝統舞踊が存在する。歓迎や戦いなど、様々な場面で披露される。サッカーやラグビーのラパ・ヌイ代表は、オールブラックスやサモア同様、試合前にこれを披露する。練習後には、ジュニアの子どもたちが踊って見せてくれた。

練習後に子どもたちが見せてくれたホコ。ニキのリードのもと、歓迎を表すために踊ってくれた


 ニキがこのアカデミーを始めたのは2019年の末ごろ。ただ、そもそもラパ・ヌイにラグビーが持ち込まれたのは約17年前の話だ。ニキが回想する。

「すべてが始まったのは、バイカワ・トゥギというラパ・ヌイ出身の人物がサンティアゴの学校に数ヶ月滞在したときのことでした。そこで、初めてラグビーを見ました。衝撃を受けた彼は島に帰って、ラグビーに向いていそうな子どもたちに声をかけて選手を集めました。そのうちの一人が私だったのです」

 その後、ニキはチリ本土で体育教師になるための勉強を経て、オールド・レッズ (Old Reds)」というARUSA(Asociación Rugby de Santiago)のディビジョン1のチームに所属。そこで注目され、やがてラパ・ヌイ出身者として初めてコンドレスに招集されることになる。2018年のことだった。

「ラグビー選手として、ラパ・ヌイ本土で上達するには少々難しい部分がありました。相手がいないので、大会や試合もないのです。自分を磨くために、とにかく島の外に出ました」

 その後はスペインのガリシアや、イングランド南東部のチームでもプレーした。

 2019年、ニキは妻とともにラパ・ヌイに戻り、当時は島内で活動していたマタムア(Matamu’a)というチームでプレーした。以降、選手としては一歩引いて、自身のアカデミーを作り、育成に力を注ぎ始めた。自分のクラブを持つことは、ラグビーを始めた頃からの目標だった。

 また、本土との人的交流もニキによって活性化された。オールド・レッズなど、ニキ自身が渡り歩いたチームに10代のラパ・ヌイ選手を送り込み、サンティアゴなど強度が高い環境でプレーできる機会を作った。私が訪れた時期はちょうど学校の冬休みにあたり、多くの青年たちがサンティアゴに渡っていた。現にこの日練習に参加していた16歳の青年は、後日ジュニア・コンドレスのセレクションのために私と同じサンティアゴ行きの便に搭乗していた。

 そういったニキの努力の甲斐あって、ラパ・ヌイのラグビーを取り巻く環境は変わりつつある。しかし、ラグビー用品や物資は依然としてサンティアゴなど都会からの持ち込みに依存しているのが現状だ。20年近く使い続けているというボールは、プリントやコーティングが磨耗して、ヤシの実のような見た目になっていた。

20年近く使っているというボール。ここまで使い込まれたボールは初めて見た…


 とはいえ、島の在住者約4000人のうち、ラグビー人口は男女でおよそ200人に増えてきたという。前述したように、スポーツはラパ・ヌイの中で重要な交流ツールにもなっている。ラグビーの認知も上がってきた。近年では、タヒチやクック諸島、ニュージーランド、フランスなどのチームを招いて7人制の大会も実施されている。今年11月には同様に、ポリネシアンのチームを中心とした7人制の大会がラパ・ヌイで開催される。LA OVALADAのガブリエルも、レフェリーとして参加する。

 ニキはあらためて、ラグビーを通じて得た繋がりについて語ってくれた。

「コンドレスに選ばれたとき、私が知らない、面識のない方々が熱い応援を送ってくれました。その瞬間、自国や島を代表していることを自覚し、とても感動しました。ともにハードワークしたチームメイトとは、兄弟のような絆ができました。本当の家族ではないのに、家族のような深い結び付きを感じる。これがラグビーの特別さです。

 次の若い世代には、そういった絆を『自分の努力次第で必ず手に入る』と実感してほしいのです。かつて私が、コンドレスの仲間たちと過ごして得た感情や思い出、気持ち。それと同じものを感じてほしいと思っています」

 ラパ・ヌイからコンドレスへ。近いうちに、練習に参加していた子どもたちの中から第2のニキが誕生するかもしれない。いつかワールドカップの舞台で再会できれば、これほど感慨深いことはない。

最後は私もタッチフットに入れてもらい、みんなでラグビーを楽しんだ


◆プロフィール
中矢 健太/なかや・けんた
1997年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学文学部新聞学科卒。ラグビーは8歳からはじめた。ポジションはSO・CTB。在阪テレビ局での勤務と上智大学ラグビー部コーチを経て、現在はスポーツライター、コーチとして活動。世界中のラグビークラブを回りながら、ライティング・コーチングの知見を広げている。

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