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【シャバルの記憶/Vol.2】駆け出しの頃。最高給選手へ。「でも、欲しいのはタイトルなんだよ」
1977年12月8日生まれ、現在47歳のセバスチャン・シャバル氏。191センチ、113キロ。フランス代表キャップ63。(Getty Images)

【シャバルの記憶/Vol.2】駆け出しの頃。最高給選手へ。「でも、欲しいのはタイトルなんだよ」

福本美由紀

 YouTubeチャンネル『LEGEND』のインタビュー番組内で、自分が出場したテストマッチについて「記憶がない」と発言したセバスチャン・シャバル(4月9日公開)。
 元フランス代表の人気者で、名LOだった大男の告白は、ラグビー専門メディアはもとより、一般のテレビやラジオといった幅広いメディアで大きく取り上げられた。

 番組は1時間半から2時間に及ぶもので、インタビュアーがカジュアルなスタイルでテンポ良く質問を投げかける形で進む。
 シャバルは番組冒頭で「あまり話好きではない。おしゃべりでもないし、無駄なことを言うのは好きじゃない」と話すも、記憶について(コラムVol.1)だけでなく、自身の価値観や歩んできた人生についても語った。
 今回はシャバルが積み重ねてきたラグビーキャリアについて話したことを紹介する。

◆月2500フランと住居から始まった。


 高校を卒業したシャバルは、工場で働き始める。ラグビーは、週に2、3回楽しむ趣味として続けていた。そこからプロになったのも「出会いと機会だ」という。

「小さな村でプレーしていた。友達より少しだけ上手かったので、地元の大きなクラブ、ヴァランスでプレーするようになった。そこで、ブルゴワン=ジャイユーのキャプテンだったアレクサンドル・シャザールの弟とジュニアチームでプレーしていた。当時、ブルゴワンは一部リーグの強豪だった。アレクサンドルが弟の試合を見に来た時、僕のプレーが彼の目に留まった。そして1998年、僕はブルゴワンに入団した。ラグビーがプロ化されたのは1995年で、まだ始まったばかり。育成ルートも確立されておらず、プロクラブが地元の小さな村まで、将来性のある選手を探しに行っていた」

「アレクサンドルは、ブルゴワンのコーチだったミッシェル・クチュラスに『ヴァランスでプレーしている若い選手がいる。セバスチャンっていうんだけど、一度見てみる価値はある』と勧めてくれた。その後、ミッシェルから電話があり、僕はブルゴワンに行った。プロの世界がどんなものか全く知らなかった。僕は旋盤・フライス盤工の工場で働いていた。それは自分で選んだ仕事で、情熱を持っていた。働き始めたばかりで、見習いを終えたばかりだった。ブルゴワンに行くと、ミッシェルが母に電話で『セバスチャンはここにいます』と伝えた。でも母は『何をするつもりなの? ラグビーはただの遊びでしょ、友達と楽しんでいるだけじゃないの。仕事じゃないわよ』と、そんな反応だった」

 そしてミッシェルからこう言われた。
「シーズンは3週間後に始まる。来いよ、君を獲る。エスポワール契約だ。パートナー企業でパートタイムの仕事を見つけてやる。旋盤・フライス盤工の仕事も続けられるよ。私たちと一緒に練習するんだ。どうなるか見てみよう」

人生について話した『YouTubeチャンネル/LEGEND』より


 シャバルは、こうしてパートナー企業での仕事の給料に加え、クラブから月2500フラン(現在のレートで約6万2千円)の給料と住居を与えられた。

 しかし彼は、ブルゴワンでの最初のトレーニング、ジョギングで500メートルも走れないうちにバテてしまった。
「持久力が全くなかった。そこから、かなり努力した」とシャバルは振り返る。

 その後の練習はタックルだった。「やり方を全く知らなかった。僕たちの村では、体当たりするだけだった。プロの世界では、仲間を怪我させてしまう可能性があるから注意しなければならない。最初の練習で、僕はNO8の選手にタックルをした。彼はとても良い選手だったけど少し気難しい人だった。すると、『一体誰がこんな馬鹿を連れてきたんだ? 何だ、そのタックルは?』という声が聞こえてきた。
『自分は一体ここで何をしているんだ?』と思った」

 これがシャバルのプロラグビー選手としてのスタートだった。

「最初はエスポワール契約だった。1年目に10試合ほど出場した。その頃、僕は青春を謳歌していて、HCのミッシェル・クチュラスが年に2、3回、私の袖を引っ張って、『セバスチャン、今週末はプロの試合に出るぞ。君には少しポテンシャルがあるかもしれない。友達と遊びすぎるのは少し控えて、もう少し打ち込んでみろ』と言ってきた。彼は優しく、僕に青春を楽しむ時間も与えながら、ただの良いラグビー選手以上の未来、つまり、非常に優れたプロラグビー選手になる可能性があると理解させてくれた。彼の言葉を信じて真剣に練習に取り組んだ。2年目には月1万フラン(約24万8千円)、3年目には、6万5千フラン(約161万3千円)稼ぐようになった。当時、父が1万フランほど稼いでいたのに比べて5〜6倍だから、とんでもない金額だった。それがプロになるということだった」

 こうして、シャバルは少しずつプロのラグビー選手としての道を歩み始める。故郷の小さな村から、フランス国内リーグ、そして世界の舞台へ。彼のキャリアは、数々の出会いと偶然、そして彼自身の努力によって築かれていく。しかし、彼の挑戦はこの後も続く。新たな環境、イングランドでのプレーが、彼のラグビー人生にさらなる変化をもたらすことになる。

◆異なる文化、異なるプレースタイル。


 2004年、セバスチャン・シャバルは新たな挑戦の地を求めてイングランドへと渡る。移籍先は、セール・シャークス。異なる文化、異なるプレースタイル、そして何よりも、これまでとは違う人々との出会い。イングランドでの日々は、シャバルにとって新たな挑戦であり、同時に彼のラグビー観、そして人生観を深める貴重な経験となる。

「ブルゴワンでの最後の2シーズンは、のちにフランス代表のヘッドコーチになるフィリップ・サン=タンドレHCだった。でも2シーズン目にフィリップはクビになり、イングランドのセールに行った。その頃、僕はもっと成長したかった。選手として成長して、タイトルを獲得したいなら、ブルゴワンじゃもう無理だって感じてた。ラグビー界の経済は急速に発展していて、ブルゴワンの会長のピエール・マルティネは年間200万ユーロ(約3億2600万円)から300万ユーロ(約4億8900万円)を投入していた。途方もない金額だったけど、ブルゴワンは人口2万5千人の小さな村。ある時点で限界に達し、クラブの成長も限界だった。それでも中位を維持していて、すごいことだったけど、僕が望んでいたのはそれじゃなかった。もう6年も在籍し、25、26歳になっていた。タイトルが欲しかった。当時、トゥールーズは現在も見られるように、『偉大なトゥールーズ』で、若い選手はみんなそこでプレーしたがっていた。でも、トゥールーズから声はかからなかった。『セールのBKにとんでもない選手がいる。でも、FWは毎週ボコボコにやられている。来いよ。2、3人補強するつもりだ。何か面白いことをしよう』ってフィリップが誘ってくれた。だから彼についていった。正解だった。おかげで素晴らしい経験ができたのだから」

スタッド・ド・フランス。何度もこの通路を通ってピッチに出た。(写真/編集部)


 セールでは、違う文化の中で、新たなチャレンジだった。自分のことを見つめ直す良い機会になった。

「イングランド北部のマンチェスターじゃ、誰もセバスチャン・シャバルなんて知らなかったし、誰も僕に期待していなかった。新しいことを受け入れて、一から積み上げなきゃいけなかった。クラブのラグビーに対する考え方も違う。イングランド人はフランス人とは異なるスポーツ観を持つ。フランスのサポーターは観客って感じだけど、イングランドのサポーターはクラブに強い愛着を持っている。誰もがジャージーを着て応援に行き、歌う。また、イングランド人は愚直で規律正しい。たまに面倒なところもあるけど、真面目に仕事に取り組む力はすごい。時には考えすぎずに、ぶつかっていく必要があるってことを理解した」

 貴重な出会いもあった。

「ニックというS&Cコーチに出会った。セールに着いて間もない頃、ニックに言われた。『君に持久力がないのは分かっている。問題ない。鍛えればいい。その分野で君が最大限に良くなるように努力するから。でも、僕たちは君の持久力に期待して獲ったんじゃない。君は強いし、パワフルだし、速い。だから獲ったんだ。他に2人のフランカーがいて、彼らは4日間走り続けられる馬のような連中だ。彼らに任せておけばいい』と」

「フランスでは6年間、地元の村でプレーしていた時でさえ、いつも『努力が足りない』って言われていた。本当に辛かった。今でもよくそのことを思い出す。手を抜いている、努力していないと思われていた。理不尽だった。僕たちの国では、できないことを指摘して、できないこととか苦手なことをさせようとするけど、良いところを見ようとしない。人の価値を見ようとしない。ニックが『僕たちは君の強みを獲ったんだ。それを発揮してもらう。君には8番でプレーしてもらおう。回復する時間も増えるから、君の運動能力に合っている』と言ってくれた時、救われた気分だった。もう10年も経つのに、今でも苦しんいでる。言葉で人は傷つく。それがフランスの文化なのかどうか分からないけど、フランスではいつも悪いところばかり見て、良いところを見ようとしない」

 他人の成功についても、シャバルはフランスとイギリスを比べている。

「アングロサクソンは成功を称賛する。成功に関心を持つけど、それは嫉妬からじゃない。そこが僕たちフランス人とかラテン系の文化との大きな違いで、フランスじゃ成功すると、何か盗んだとか、誰かを騙したとか思う。でもイギリス人は『どうやったんだ?』、『教えてくれよ、僕も同じようにやってみるから。参考にさせてもらうよ』って言う。フランスじゃ、ひどい言い方だけど、『みんなが500ユーロ稼いでジャガイモ食ってれば、みんな幸せ』みたいな考え方がある。実際にはそんなことありえないのに。だって、生まれた時からみんな違うし、平等じゃないし、みんなそれぞれ違うんだから。僕はそれをラグビーで経験した。背の高い人もいれば、痩せている人も、太っている人も、小さい人もいる。そういう違いがある。でも残念ながら、フランスじゃそれを理解しない。成功したやつがいると、殴りかかって、持っているものを全部奪おうとする」

 王族や貴族をギロチンにかけたフランス革命が頭に浮かんだ。

◆所得より誇り。


 2009年にラシン92に移籍して、2012年にはリヨンへ移籍、2014年に引退を発表した。

「ラシンをクビになった後、リヨンで最後のキャリアを過ごした。ラシンでは監督と合わなくて、うまくいかなかったから。それで、大きな野心と目標を達成する経済力を持ったプロD2(2部リーグ)のリヨンでキャリアを終えることにした。再建のため、クラブの歴史の新しい章を書くために2年契約で移籍した。でも、2年後、いや1年半後、2年目の初めには、もうやりたくなくなっちゃった。本当に、もう気が進まなくて。それで、パフォーマンスの95パーセントは気持ちだって気づいた。もう気持ちがなかった。グラウンドに出ても、以前のような情熱がなかった。『僕は何をやっているんだ?』って何度も自問自答していた。全てのスポーツ選手にこういう(自分で決断する)終わり方をしてほしい。もうやりたくなくなるんだから後悔はない。怪我で引退するわけでもないし、どのクラブからも必要とされなくなったとか、コーチがもうお前を必要としていないとか、そういう理由じゃない。自分の気持ちがもうついていかないんだ。もうやりたくない、別のことをしたいんだ。最高の終わり方だった」

フランス代表の歴史を紡いできたひとり。(写真/編集部)


 でも、心残りはある。2007年にシャバルはフランスで最も所得が高いラグビー選手になった。

「あなたの職業の頂点に達したわけですね?」と聞かれて、「給料の面で? まあそうだけど、でもまずはグラウンドだから。もっとたくさんのタイトルを獲得したかった。その方がずっといい」

「どのクラブでプレーするのか、全て自分で決めて納得してやってきたから後悔はない。でも、トップレベルのスポーツ選手である以上、タイトルを獲るためにプレーするのは当然。でも、僕はあまり獲れなかった。ブルゴワンで優勝盾を獲りたかったなあ、最高だっただろうなぁ。あのクラブは小さなガリアの村みたいな感じで、当時は色々な強豪クラブを打ち負かして、ちょっと厄介な存在だった。すごい選手が揃っていた。ブルゴワンのクラブの書斎に優勝盾を飾りたかった。できたかもしれないのに、って思う。だって、それがラグビーの良いところじゃないか。いつもあと少しのところにいる。運が味方してくれる日もあれば、そうじゃない日もある。ボールのバウンドが今日はいいとか、今日は良くないとかね」

 そんなシャバルは今も、フランス代表に強い愛着を持って注目している。

「現今の代表は本当に才能が溢れている。いまなら僕は選ばれてないよ。信じられないくらい、質量ともに恵まれた素晴らしい世代だ。アントワンヌ・デュポンっていう世界最高の選手がフランス代表を引っ張っているのは、本当に幸運だ。本当にすごいし、ラグビーがここまで来たのを見るのは最高だ。この世代には驚かされる。たとえ昔のことだとしても、フランス代表の歴史の一部になれたことを誇りに思っている。僕たちは過去の人間で、今はその続き、素晴らしい続きなんだ。彼らは勝たなきゃいけない。タイトルを獲らなきゃいけない。それが、フランス代表がずっと抱えてきた問題で、強い時もあれば、少し弱い時もあって、サイクルみたいなものだけど。今の世代は、3、4年も一緒にプレーしていて、集団としての経験も豊富になってきている。だから、勝たなきゃいけない。連覇しなきゃいけない。タイトルを獲らなきゃいけないんだ」

※次回、Vol.3(最終回)に続く。


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