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試合中、いつも静かに燃えている。
今要(こん・かなめ)は、2019年4月から横河武蔵野アトラスターズでプレーしている。
「ルーキーイヤー(2019年度)はトップイースト2位で、現在はトップイーストBにいるのを考えると、だんだん弱くなっているのかなって印象ですが、トライアンドエラーを繰り返して強くなる『準備期間』だと思っています」
29歳。結婚して子どもが産まれてからは、新たな意識が生まれた。
家を空けてまでラグビーをやっているのだから、適当に取り組むのは家族に対して申し訳ない。そして、かっこ悪い。そう思うようになった。
トップイースト2025 Bグループで戦う横河武蔵野の今季は、ここまで4勝1敗で勝ち点19、1位となっている。12月7日に東京ガス大森グラウンドでおこなわれる、大塚刷毛BRUSHESとの対戦が今シーズン最終戦となる。
昨シーズン、降格した。一年で昇格しないとマズいことになるぞ。
そんなことは、みんな分かっている。
「歴史があるチームだし、仕事もしっかりやって、なおかつラグビーにも全力で取り組んで戦ってきたチームとして、先輩方と自分たちが築いてきたプライドが失われてしまうのが一番怖いです」
同じ目的に向かってチームが一丸となっている感覚がある。全員の目に同じ絵が見えている。そんなプレーを積み重ねながら、シーズンを通して次第に自信をつけてきた。

今の楕円球との出会いは8歳だった。「ボールを持って相手を抜けば褒められるというシンプルさに、一瞬でハマりました」と記憶している。
「理想の選手は、仙台育英の大先輩の、須田康夫氏(元釜石SWヘッドコーチ)と、ニールソン武蓮傳氏(現仙台育英監督)です。高校時代にちょくちょく指導に来てくださっていて、初めて身近に触れ合えたプロ選手だったので、憧れでした」
小・中学校時代は地元・横浜のラグビースクールで活動し、高校受験の進路には、花園出場の可能性を追求した。
「花園に行きたくて、いろいろ探していたら、当時育英の監督だった丹野博太先生が横浜までプレーを見に来てくれて、声をかけていただきました。2011年(中学3年)は東日本大震災があった年で、警察官の父親が被災地に派遣されているタイミングでした。父親が育英を見に行ってくれて、良い環境だと言っていたのも入学の決め手でした」
寮生活は、慣れるまで大変だった。ラグビー部の練習は、毎日が生き残りをかけた挑戦だった。
グラウンドでは、なぜか自分だけ、先輩からとことん追い詰められていた。夜になると昼間の出来事を思い出し、悔しくて、一人でよく泣いていた。夏合宿でも状況は変わらなかった。悔しくて、毎日泣いていた。みんなに知られないように。
悔しさは熾火(おきび)のような熱の塊となり、やがてメラメラと外へ向かって燃え上がった。新しい力がほとばしった。
新チームとなった1年生の冬、東北新人大会から先発メンバーに定着した。2年生でU17東北代表入りを果たす。確かな手応えを感じ、CTBとしての自信を掴んだ。
U17東北代表で初めて主将を経験した。
「短期間のチームでのキャプテンだったので、とにかくコミュニケーションをとって仲良くなることを心掛けました」と振り返る。
3年時には、花園予選の準決勝、決勝、花園1回戦に出場した。 高校日本代表候補にも選ばれ、ラグビー選手として大きな飛躍を遂げた。一方で、思い上がってしまった時期もある。
丹野監督(当時)に、「謙虚さが大事だぞ。そうでないと成長には限りがあるし、必ず足元をすくわれる」とたしなめられたこともある。

その時は素直に聞き入れることができなかった。
間違っていた。
やがて、試合で無理なステップを踏んで前十字靱帯を断裂する。膝をテーピングで固めて花園1回戦に出場するも、怪我の悪化により、2回戦出場のチャンスを棒に振った。
手術後、3年の10月までリハビリ生活が続いた。
絶望に飲み込まれながら過去を振り返り、初めて自分を見つめ直した。居丈高な態度を強く後悔し、監督の言葉を思い出して猛省した。
チームが試合の日はできる限りの雑用をして過ごした。怪我をして初めてチーム全体を見渡すことができた。チームメイトとの接し方や試合に出なくてもチームへ貢献する姿勢を学んだ。
高校日本代表候補に選ばれたが、あまり高揚感はなかった。むしろ後ろめたい気分だったことを覚えている。
高校卒業後は関東へ戻った。加藤尋久監督(当時)から勧誘を受け、日本大学へ進学した。
同世代の東北出身者に、要の名前を知らない者はいなかった。
それほどCTBとして群を抜いていたはずの自分が、1年時も2年時も、なかなかチャンスを活かすことができない。Aチームに絡みつつもレギュラー定着とはいかなかった。
ずっと焦りを感じた。
3年の春、リーグ戦出場の機会を求め、BKからFWへの転向を模索し始めた。
武器であるタックルが活かせる。また、高校時代の怪我をキッカケに、以前のような思い切ったアタックができなくなっていると感じていた。
心機一転、コーチとも話し、CTBからLO/FLへの転向を決意した。
現在もラグビーを続けることができているという点で、この決断は「プラスになった」。

2018年(大学4年)、日大ラグビー部は創部90周年を迎えた。その節目の年に主将を任された。
同年春、アメリカンフットボール部が起こした不祥事が原因で、日大は厳しい視線に晒される。中野克己監督(当時)とともに清廉潔白な学生ラグビーをアピールしなければならなかった。
「主将の僕が副将を決めさせていただきました。FW、BKそれぞれに3年生の頃からスタメンだった選手を指名しました。その2人がプレーでも言葉でもチームを引っ張ってくれて、状態を上げてくれて、かなり助けられました。『リーダーには、優秀なサブリーダーがあってこそ』ということを学びました」
キャプテンという立場にありながら、大学4年間で一番長くて苦しい1年を過ごした。
プロラグビー選手を目指したが上手くいかず、最後のシーズンもJr選手権が主戦場。リーグ戦の出場は最終節の1試合だけだった。怪我で離脱し、自分を責めて落ち込んだ時期もあった。
「大学のキャプテンは、本当に難しいと感じました。部員が140人くらいいて、いろんなタイプの人間がいる中でまとめなきゃいけないし、なおかつ自分のパフォーマンスも常にトップでなきゃ言葉に説得力もない。僕の場合は常にトップの実力を持っていた訳ではなかったので、そこでかなり悩んだし苦労しました」

振り返ってみれば、凸凹なラグビー人生。そんな日々の中で培われてきたものが、現在の今要の人柄に滲み出ている。
普段から周りのために力を尽くす献身的な行動が多い。
新入団選手が、ふと柔和な笑顔を見せるとき、視線の先にはアニキがいる。一見、人懐っこく社交的だが、周りに自然に溶け込んでいける、繊細な性質も持つ。だから、人に対して理解力が高く、面倒見も良い。
「いつもふざけながら誰とでも話すようにしている」から、いろんな人が頼りにする。
「悩んだときに、『ちょっと聞いてくださいよ』と、頼ってもらえるアニキ分になれたらなあって思います」
学生時代に、栄光と挫折に揉まれて磨き上げたメンタル。その内側で燃えている青い炎が、アニキの真のプロファイル。
チームの再昇格に欠かせぬものの一つでもある。