
「Listen to your master!」
アルバータ州のアルバータカップ、リーグ戦中盤の一戦。自分はいつも通り7番としてグラウンドに立っていた。
試合中、ある選手が相手のアフリカ系選手に向かって、冒頭の言葉を何気なく吐いた。周りの空気は凍りつき、ほんの一瞬、誰も声を出せなかった。
日本で育った自分にとって、「マスター」といえば居酒屋やバーのマスターのイメージで、直訳すれば「マスターの言うことを聞け」という程度の意味になる。
自分は海外に住む期間は長いものの、ネイティブではなく、学校教育もほとんど日本で受けてきた。ゆえに、この言葉が持つ歴史的背景を理解していなかった。
だが、実はこの表現、奴隷制度時代に、奴隷に対して「主人の言うことを聞け」と命じる言葉として使われた歴史がある。
その選手は差別の意識はなかったと説明しているし、その選手同士は日常的には普通に会話する間柄だ。
それでも、言葉には歴史があり、口にした瞬間にその背景ごと呼び起こしてしまう力がある。無意識であっても、それは消えない。
私もこれまで、アメリカ、カナダ、ケニア、東南アジアでプレーしたり暮らしたりする中で、アジア人として世界各地で差別を経験してきた。少し、それらを紐解いていきたい。

◆ケニアで経験した差別と無力感。
ケニアの首都、ナイロビでのセブンズの全国大会の試合前。入場口で、両チームの選手が並んでいた。相手選手から半笑いで手を振りながらバカにするように「ニーハオ」とからかい混じりで言われた。
別の大会の試合中には、「チンチャンチョン」(欧米で中国語を真似たもの)といった言葉をかけられることもあった。
試合後、観客席から「帰れ中国人」と叫ばれたこともある。
街中でも歩いていると半笑いでバカにしたように「ニーハオ」と声を掛けられる。こうした意識的・無意識的な差別は、驚くほど頻繁に起きた。
ここで強調しておきたいのは、私が「中国人に間違えられたこと」を嫌だと感じているのではない。問題は、見た目やアジア人という括りだけで国籍やアイデンティティを一方的に決めつけられ、さらにそれを揶揄や侮蔑の対象として扱われる点にある。
つまり、特定の国を引き合いに出されたこと自体ではなく、「アジア人だからからかっていい」と思われる構造そのものが差別なのだ。
アジア人は物静かだと思われがちで舐められることもあり、時には怒鳴り返したり、協会やコーチの介入を求めたりした。観客に怒鳴り返し、掴み合いになったこともある。
しかし、こうした言動をしない人の方が圧倒的に多く、レフリーが「この件を協会に報告するか?」と確認してくれたり、しっかり謝ってくれる人もいた。
それでも、その瞬間の頭の中が沸騰する感覚と、一方でどうにもならないやるせなさは、いまでも、まったく慣れることのない強い痛みだ。
ケニアを含む多くのアフリカ諸国では、植民地支配の歴史が人々の価値観や社会構造に複雑な影響を残している。アフリカでは「African is ashamed of being African(アフリカンはアフリカンであることを恥じる)」という表現(場面によって言い方は異なるが)はしばし使われ、これもその歴史的文脈に根ざしている。
アジア人はフィジカル面で下に見られる唯一の相手として認識されやすく、そこから差別的態度が生まれることもある。

◆アメリカ、そして日常に潜む偏見。
こういった事態にはアメリカでも直面した。
アメリカでは、露骨な差別は少ないが、無意識下の偏見に晒される機会は多い。加入の初試合で、フランカーとしてプレーしていたその試合、ディフェンス時はエイトに回された。
アジア人ゆえ、実態以上に小さく見られる傾向があり、相手エイトを止められないだろうと見られたからだ。
また、チームメイトの会話で、アフリカ系に対する侮蔑的なスラングのNワードが飛び、思わず振り向いてしまったこともある。その言葉が持つ、人種差別的な重い歴史を理解していたからだ。
海外生活では、レストランで端の席に通されたり、空港のイミグレーションでくしゃみをしただけで距離を取られたり、「アジア人だから計算が得意だろう」と決めつけられたりすることがある。
つい先日も、ジムからの帰り道、10歳くらいの子どもにFワードで罵られた。(Fワードは放送禁止用語で、英語圏では最も汚い部類の罵り言葉とされる)
こうした日常の些細な行動が、試合中の軽視と同じように「自分は軽く見られている」という感覚を呼び起こす。そして、決して大きくはないが、でも確かな小さな棘を心の中に宿していく。
◆複雑なアイデンティティと日本社会。
こうした差別や偏見は「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)」や「マイクロアグレッション(微細な侮辱や軽視)」等と呼ばれる。前述のように、加害者に悪意がなくても、被害者には積み重なる負の経験として残る。
日本でも残念ながら、差別的言動は存在する。特に東アジアの隣国に対する差別的言動は、インターネット上で日常的に見られる。
「ハーフだからきれい」といった無意識の言葉や、犯罪報道で容疑者の国籍を見て「ああやっぱりあの国の人は」と言う論調は、無意識下の偏見が顕在化したものだ。
また、こうした偏見でなくても、受け手がそう感じてしまう場合もある。
自分自身、日本で生まれ育ったものの両親が東アジア圏出身の人と、アイデンティティの話をしようとして、意図せず不快感を与えてしまった経験がある。

◆多様な世界での気づきと成長。
シアトルやニューヨークでは、多様なバックグラウンドのチームメイトと共に練習や試合を重ねた。最初は不安や警戒心も強かったが、徐々にスキルや人間性で信頼を得られる場面も増えた。アメリカは多民族国家ゆえ差別や偏見の温床でもあるが、一方で出自にこだわらず評価してくれる環境もある。
ケニアでは、現地選手の生活や考え方に触れ、彼らの歴史的背景と価値観を理解しようと努めた。人懐こい彼らのおかげで、たくさんのことを知ることができた。
一方で、街やグラウンドで遭遇するアジア人差別には、無力感も感じた。
東南アジアでは、日本人として過ごす中で経済格差が態度や言葉に表れる場面に出会い、「アジアの中でも優劣意識がある」ことに気づかされた。
カナダでは多文化主義が掲げられている一方で、一部ではコミュニティ同士の深い交流は限られている側面もある。(もちろんこれは国全体を示すものではなく、一部の事例である。)
こうした経験を重ねる中で、日本人として、アジア人としてのアイデンティティを強く感じるようになった。一方で、自分自身の中にも無意識のバイアスが存在することに嫌でも気づく。
例えば見た目やアクセントから相手の能力を推測してしまう癖——それは自分が受けてきた偏見と同じ構造を持っている。
差別は一方向ではなく、誰もが加害者にも被害者にもなりうる。だからこそ、自分の感覚を疑い、目の前の人を「カテゴリー」ではなく「一人の人間」として見る努力が必要だ。
私の根源的な問題意識は「日本人/社会のグローバル化」にある。これからもっとグローバルな世界に入っていく中で、意識的・無意識的な差別に直面することは避けられないだろう。
このグローバルな世界を生き抜くための挑戦は、きっとそう言った自分の中の無意識的な偏見に目を向けることでさらに加速していくのだろう 。
【プロフィール】
おおたけ・かずき
1996年愛知県名古屋市生まれ。早稲田GWRC、University of Washington Husky Rugby Club、Seattle Rugby Club、Kenya Homeboyz、Kenya Wolves等を経て、現在カナダ・アルバータ州のラグビーチームでプレー中。13人制ラグビー日本代表(キャップ3)。早稲田大学スポーツ科学部、法学部、University of Washingtonを経て、外資系戦略コンサルティングファームの東京オフィス、ケニアオフィスなどに勤務したのち、独立。