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【楕円球大言葉】2025年のウェールズと1989年の大東文化大学。
ウェールズ代表キャップ61を持つジョシュ・アダムズ。日本ツアーのメンバーにも名を連ねた。写真はRWC2023時。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】2025年のウェールズと1989年の大東文化大学。

藤島大

 気温38・8度。湿度85・7パーセント。この季節、英国の西の方にそんなに暑くて蒸す土地があるのか。ない。たぶん。

 だから人工的にこしらえた。ウェールズ代表のその名も「ヒート・キャンプ」。ほどなくの日本ツアーに備えて、連中、汗だくになっている。ヒートチャンバー、つい「地獄房」とでも訳したくなる、高温多湿のスペースでジムワークに励んでは、息を詰まらせ、膝に手をおく。特訓である。

 2019年のワールドカップ日本大会において最多7トライのスピードスター、WTBのジョシュ・アダムズの「証言」をメディアが紹介した。

「日本ツアーのための準備は、彼と彼のチーム仲間にとって、これまでのあらゆる経験よりも過酷だ」(Wales Online)

 別の媒体は、かつてのブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズの一員、アダムズ本人の言葉を伝えている。

「金曜(6月20日)のセッションのあとにヒートチャンバーから出てくると、何人かの選手が言ったんだ。いままでで最もハードな経験だと」「自分としてもワースト3には入る。ぞっとするほど、きつい」(Nation.Cymru)

 30歳のフィニッシャーは、あらためて6年前のワールドカップのスターのひとりであった。はるか遠くのファーイースト、日本でラグビーをすることの難しさをわかっている。

「湿度のせいで実際の気温より10度くらい暑く感じる。25度が35度なんだ」(同前)

日本ツアーの準備で、暑さ対策を練るチームの模様を伝えるウェールズ協会。オフィシャル『X』より


 ウェールズ陣営は、7月5日の小倉でのテストマッチ初戦の「高温多湿」をことに警戒している。計2戦なので、いずれにせよ、ここを落とせば、次に大勝したところでジャパン・ツアーは成功とはならない。

 ボールを石鹸水に浸し、練習に使用、汗および汗にとける鎮痛液のいたずらによるハンドリング不全にも備えた。
 なんとも古典的だ。57年前、ジャパンは強豪国へ初の遠征、ニュージーランドの芝の露による「滑り」に当初は苦しんだ。そこで、練習の球に水をかけて、慣れようと試みる。古今東西、人間、必死になると、素朴な手段に頼るものなのだ。

 これも昔、1983年10月12日水曜のストーリー。ウェールズの決して強くはない地域、ペンブロークシャー代表と来征2戦目のジャパンがぶつかった。「少なくともこの試合だけはツーリストが勝つ」が戦前の評価の大勢だった。

 しかし、向こうには「狂信的な競争者」(pembrokeshire sport)がいた。ローカルな代表のローカルのコーチ、トレバー・ジェイムズこそは情熱のかたまりであり、めったに許されぬ「国代表を倒す機会」に燃えていた。
 
 後年になって独創的指導で世に出ることとなる人物は、小柄な東洋人のスクラムは低いだろうと仮説を立てる。クラブのグラウンドに穴というか溝を掘り、スクラムを押すFW陣の足をそこへ沈めては、しつこく対策を練った。28-15。語り継がれる大勝利である。
 
 ジャパンは黒星に覚醒、次戦で強豪クラブのニースと引き分け、最終戦ではウェールズ代表に24-29と激しく美しく迫る(ペンブロークに負けたチームのスコアではありえない)。たたえられた攻守のいわば裏には「知られざる穴掘りコーチ」にしてやられた教訓があった。

 2024年3月に死去のトレバー・ジェイムズは「音楽を流しながらトレーニング」のラグビー界における先駆者でもあった。いまテストマッチ17連敗のウェールズの面々が「地獄房」で汗だくとなり、石鹸球(玉にあらず)をていねいにつなぐ。ラグビーの国のふくよかな土壌には「狂信的な競争者」にして「賢き変わり者」のためのスペースはいつだって残されている。

 2025年6月のジョシュ・アダムズは言う。

「いっぺんもウェールズとして勝った経験がない、なんて、若手が口にすると、ぼくも傷つく」「でも勝っているときと比べても、才能に変わりはない。問題は自信なんだ」「転機は必ず訪れる。それがこの夏であることを願うよ」(Cardiff Rugby)。
 
 焦熱の小倉で「ヒートチェンバーを思い出せ」と発奮、連敗の沼を這い出たら、たちまち矜持は降りてくる。噴き上がりもする。どうやらレッドドラゴン、本気です。

2013年の日本ツアー時、ウェールズ代表は第2テストで史上初めて日本代表に敗れた(8-23)。あの日の秩父宮も暑かった。写真左下、立川理道のタックルを受けているのは2024-25シーズンはグリーンロケッツでプレーしたリース・パッチェル。(撮影/松本かおり)


 おさらい。暑いところでの攻防を覚悟、高温多湿にバーベルを差し上げる。汗で滑るぞ、と、石鹸でヌルヌルの楕円球を用意する。経験したことのないくらい低いスクラムに対応するには、経験したことのない環境をつくればよい。すなわち溝を掘る。
 純粋で単純で情熱的な用意周到とは、きっと、スポーツの喜びに含まれる。
 
 ついさっき、ひとつの場面が浮かんだ。
 本コラム筆者が若きスポーツ新聞記者時代、1989年12月20日前後のはずである、埼玉・東松山のグラウンドで大東文化大学ラグビー部がへんてこりんなトレーニングを始めた。

 鏡保幸監督が、釣り竿状の細い棒を地面に近づけて、あのころとしては巨漢ぞろいのFWのひとりひとりがその下をくぐっては、その姿勢のままタックルバッグに突き刺さる。

 低いヒットの稽古である。前年度学生チャンピオン監督は、なんだか愉快そうに、ペコちゃんとも称された有名なスマイルを浮かべている。

「慶應はすごいよね。タックルが低い。それに刺激されて」
 
 数日前、正確には12月17日、当時の方式の「関東大学交流試合(対抗戦とリーグ戦の上位4校がいわゆるタスキがけで全国選手権出場を争う)」で慶應義塾大学を退けた。終了寸前まで9-6の僅差、苦しみつつ、なんとか13-6で歩を進めた。
 
 両校の公式の対戦は史上初であった。大東文化には、ナンバー8のシナリ・ラトゥ、SOの青木忍という現役日本代表がいた。しかし、軽量の慶應は抵抗をやめなかった。

 終了の笛を聞くや、黒黄ジャージィの15番、4年の田村喜寛はもう歩くこともかなわず、両肩を仲間に支えられ、フィールドを去った。まさにオールアウト、タックルにランにキックの処理におかしなくらい体を張った。

大東文化大学は2024年度、関東大学リーグ戦1部を制した。(撮影/松本かおり)


 鏡監督は、公共放送の勝利インタビューを待ちながら、そんな姿を見て拍手を送り、マイクを差し出されても、少しのあいだ言葉を詰まらせた。
 
 後日の大東文化グラウンド。取材のこちらにつぶやいた。

「慶應の15番、田村。都立戸山高校。大丈夫だよ。社会で活躍しますよ」

 そう対戦者をたたえた人の率いる大東文化の卒業生もまた世の中で力をふるった。ことにラグビー界では選手、指導者、マネジメントに人材の列は途切れない。

 1989年5月の対スコットランド勝利の先発には前述のラトゥと青木、さらにノフォムリ・タウモエフォラウの同窓3人が名を連ねた。
 最近の大試合、2024年10月26日のオールブラックスとのテストマッチにも6番のファカタヴァ アマト、21番のSH、小山大輝の名が見つかる。ともに学生時代はモスグリーンのジャージィに身を包んだ。
 
 クラブの成績に波はあっても、よきラグビー人は続く。鏡元監督の「慶應に素直に感動、純粋で単純で情熱的な練習法をただちに実践」という態度、個性がどこか関係している気がしてならない。  

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