◆JP、満を持して古巣のヘッドコーチへ。
JP・ピーターセンが前任のジョン・プラムツリー(※元日本代表ディフェンスコーチであり、元アイルランド代表FWコーチも務めた)のあとを受け、“正式には” 2月18日に古巣シャークスのヘッドコーチ(HC)に就いた。
ピーターセンは、2013年から3シーズンにわたり当時のトップリーグ、パナソニックワイルドナイツ(※現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)でプレーしており、スプリングボックスのレジェンドの中では、日本のファンにとって比較的なじみ深い存在だろう。
しかしピーターセンの印象を強烈に刻みつけたのは、やはり2015年ラグビーワールドカップ(以下、RWC)、 ブライトンの奇跡でのラストシーンではないだろうか。日本代表WTBカーン・ヘスケスが劇的な逆転トライを決めたあの瞬間、ピーターセンは最後まで諦めなかった。ヘスケスをタッチへ押し出そうとしながら、同時にボールの下へと手を差し込み、グラウンディングを阻止しようとする。その執念のプレーは、ヘスケスのトライと共に人々の記憶に深く刻まれている。
2007年RWCの優勝メンバーでもあるピーターセンは2021年、34歳で現役を退くまでに、スプリングボックスとして通算70キャップを重ねた。そのうち実に44試合が、もう一人のレジェンド、ブライアン・ハバナとのWTBコンビでの出場である。2007年からおよそ8年間、南アフリカ代表の両翼は事実上この2人が担っていたと言っても過言ではない。
CTBと異なり“WTBのコンビネーション”という視点で語られる機会は多くない。しかし、この44試合という数字は、スプリングボックス史上最多の記録である。2位は現役のチェスリン・コルビとカートリー・アレンゼによる17試合なので、南アフリカでは恐らくこの記録は破られることがないのではないかと言われている。

現役時代のピーターセンは190センチ、100キロの大型WTB。高校時代はロックだった。
転機となったのは、彼の潜在能力を見抜いたコーチからアウトサイドセンターへの転向を勧められたことだった。この決断が彼のラグビー人生を大きく変える。BKとしてのプレーが評価され、シャークス・アカデミーの奨学生に選ばれると、そこからはスプリングボックスへと続くエリートコースを歩んでいった。もっとも本人は当初、BKでのプレーが好きになれず、何度もロックへ戻ることを考えたという。
余談だが、ピーターセンのクリスチャンネームはジョン・ポール・ロジャー(Jon-Paul Roger)。通称はJPだが、正式に略せばJPRとなる。
JPRといえばオールドファンには懐かしいウェールズ代表、そしてブリティッシュ・ライオンズ(現ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ)の黄金期を支えた伝説のFB、故JPR・ウィリアムズの名前が浮かぶのではないかと思う。その通りで、ピーターセンの名は父親がウィリアムズにちなんで授けたものだという。
興味深いのは、JPR・ウィリアムズとシャークスとの縁である。1974年のブリティッシュ・ライオンズによる南アフリカ遠征後、ウィリアムズはイギリスへ帰国せず、1シーズンだけダーバンのノースランズクラブに所属。当時のナタール(現シャークスの前身)として数試合に出場した記録が残っている。ラグビーがまだアマチュアだった時代である。
アパルトヘイト体制下、南アフリカが国際社会から孤立していた時代にあって、世界的スターであったウィリアムズの存在は、ピーターセンの父親を含む当時の南アフリカ・ラグビーファンにとって計り知れないインパクトを与えたはずだ。
また、ピーターセンは前述のパナソニックワイルドナイツに加え、イングランド・プレミアシップのレスター・タイガーズ、そしてフランスTOP14のRCトゥーロンなどの海外クラブに在籍した経験がある。しかし南アフリカ国内においては、アカデミー時代から現役引退までシャークス一筋。クラブ通算キャップは197に達し、その存在はまさに“ミスター・シャークス”と呼ぶにふさわしい。
クラブ側も長年チームを支えてきた功労者を将来的な指導者として育成したいという明確な意図があった。ピーターセンは現役引退直後にシャークス・アカデミーのコーチに就任し、指導者としてのキャリアを歩み始める。その後は年代別ユースやカリーカップのシニアチームを率い、直近ではシャークスのアタックコーチを務めるなど、着実に実績を積み重ねていった。とりわけ2023年にはU20チームを指揮し、SA U20カップ優勝という結果を残した。
ピーターセンは自分のコーチングは、これまで接してきた様々なコーチから学んだことを融合していると述べている。クラブレベルではジョン・プラムツリーをはじめ、ロビー・ディーンズ、スプリングボックスでは、ジェイク・ホワイト、ピーター・デ・ヴィリアーズ、そしてハイネケ・メイヤーなど名将・知将と呼ばれる指導者の影響を受けてきた。自分がコーチとなったいま、各コーチから得た知識や知見をまとめて、自分独自のスタイルを確立することができたという。
そして指導者としての第一歩から5年。ついにシャークスのHCに就任するまでに至った。

◆失望からの船出。ネガティブをポジティブに捉える。
今シーズン、スプリングボックスの主要メンバーを多く擁して期待されたシャークスだが、昨年9月に開幕したURC(ユナイテッド・ラグビーチャンピオンシップ)では開幕から1勝4敗1分と波に乗れず、序盤戦から苦しい戦いを強いられた。流れを変えられないまま迎えた12月7日のヨーロピアン・チャンピオンズ・カップ、スタッド・トゥールーザン戦。アウェイとはいえ19–56という大差での敗戦は、チームの現状を象徴する結果だった。
この試合を最後に、ジョン・プラムツリーはHCの座を退くことを発表した。成績不振の責任を取る形での退任であり、シーズン序盤での決断はクラブにとっても苦渋の選択だったといえる。そして、この緊急事態の中で “暫定HC” としてバトンを託されたのがピーターセンである。
冒頭であえて “正式には”との文字を加えたのは、その事情による。クラブ内部で指導者になるべく育成をされてきたピーターセンのHC昇格は既定路線と見られていた。しかし、URCトップチームを率いた経験はまだなかった。そのため、まずはシーズン途中の“試験的起用”という位置づけでチームを託されたと考えるのが自然だろう。
そして、暫定HCとして臨んだ最初のミーティング。ピーターセンは選手たちに問いを投げかけた。
「このチームのアイデンティティとは何か。どんな文化を大切にしているのか」
しかし、返ってきたのは言葉ではなく、重苦しい沈黙だった。誰一人として明確な答えを口にできない。静まり返った室内で選手からの反応を待った数十秒は、ピーターセンにとって衝撃的な時間だったという。

「選手たちは私の質問に答えられなかった」
チームは自分たちがどのような存在で、何を目指しているのかという根幹的な部分さえ見失っていたのだ。ピーターセンが受けた衝撃は決して小さくなかった。しかし同時に、その空白を埋めることこそが自らの使命であると、前向きに受け止めた。失意の中、ピーターセンはまず着手すべきは細かな戦術ではなく、チームの方向性の確立だと理解した。
ピーターセンはすぐにCTBアンドレ・エスターハイゼンなどのチームリーダーたちと膝を突き合わせ、自分たちの強みは何か、どのような個性を武器にできるのかを丁寧に洗い出していった。その上で、それらを最大限に活かすゲームプランを構築し、“シャークスはどのようなラグビーを体現すべきか” という本質的な問いを、選手たちと共有しながら、チームの方向性を再定義していったのである。
シャークスのプレースタイルといえば、伝説的コーチのアイザック・ヴァン・ヘルデが1960年代に築いた奔放なランニングラグビーである。大胆にボールを動かし、果敢にスペースへ仕掛けるそのスタイルは、当時の南アフリカにおいて革新的だった。ヘルデは以前、弊コラムでも取り上げたが、のちにアルゼンチンに招聘され、同国代表ロス・プーマスの強さの礎を築いた人物でもある。
しかし時代は変わり、ヘルデがシャークスの指揮を執った60年前とは競技環境そのものが異なる。現在、シャークスが主戦場とするURCでは北半球シーズンに合わせたスケジュールになっている。そして、シャークスの本拠地であるダーバンは、南アフリカ有数の高温多湿地帯だ。60年前にはシーズンオフだった夏の試合では湿度と汗でボールが滑りやすくなり、ハンドリングエラーのリスクが格段に高まる。そのような状況下では、昔のようにランニングラグビーを「アイデンティティ」として掲げ続けることは現実的ではない。
もちろん手の内を明かすことになるので、ピーターセンがチームの方向性を具体的に語ることはない。だが、今季のシャークスの陣容を見れば、その潜在力は一目瞭然だ。
FWではPRオックス・ンチェ、PRヴィンセント・コッホ、HOボンギ・ムボナンビ、LOエベン・エツベス、そしてFLシヤ・コリシといったスプリングボックスの中核が並ぶ。
BKにもSHグラント・ウィリアムズ、SHジェイデン・ヘンドリクセ、CTB/WTBイーサン・フッカー、CTBエスターハイゼン、WTBエドウィル・ファンデルメルヴェ、WTBマカゾレ・マピンピ、そしてFBアフェレレ・ファッシら実力者が揃う。
ベストメンバーが整えば、どのポジションにも弱点は見当たらない。
とりわけBK陣の充実ぶりは特筆に値する。鋭いランで防御を切り裂くこともできれば、ハイボールを駆使した空中戦で優位に立つこともできる。ひとつの色に染まらない多彩な攻撃ができる陣容である。
ピーターセンが現役時代から国内外で体得した多様なラグビーの知見が、この豊富なタレントと結びつくとき、シャークスは戦略的に洗練された新たな「アイデンティティ」を構築していくことになるだろう。

◆竜頭蛇尾。JP・ピーターセンHCは挑み続ける。
ピーターセンは暫定監督としてシャークスを率いて7試合を戦った。結果は下記のとおり5勝2敗と好成績を収めた。出だしは好調だった。
1) ヨーロピアン・チャンピオンズ・カップ
12月13日 勝 28-23 サラセンズ(H)
1月10日 負 10-26 セール・シャークス(A)
1月17日 勝 50-12 クレルモン(H)
2) URC
12月20日 勝21-12 ブルズ(H)
1月 3日 負 22-23 ライオンズ(H)
1月24日 勝 30-19 ストーマーズ(A)
1月31日 勝 36-24 ストーマーズ(H)
この時点でシャークスのURC総合順位は9位。しかし、南アフリカシールドでは首位に浮上した。なかでも大きかったのは、第10節、第11節で宿敵ストーマーズに連勝したことだ。なお、そのストーマーズは総合順位では南アフリカ勢トップの3位、同シールド内でも3位につけていた。
数字だけを見れば、シャークスは国内勢には強さを発揮する一方、海外勢相手には取りこぼしが目立つ構図になる。もっとも、プレーオフ進出を見据えれば、あくまで総合順位8位以内に入る必要がある。南アフリカシールド内で勝ちを重ねて“内弁慶”になっても、総合順位が低かったら意味がない、そう考えるのが普通だろう。
しかし南アフリカでは、国内フランチャイズ同士の対戦は、海外勢との試合以上に重みを持つ。もともと地域間のライバル意識が強い土壌があるうえ、アパルトヘイト時代には国際制裁によって対外試合が制限され、カリーカップをはじめとする国内大会がファンにとって事実上の最高峰であり続けた歴史がある。その記憶と感情は、スーパーラグビーを経てURCの時代になった現在も色濃く残っている。
実際、通常のリーグ戦でも、海外の人気クラブとのカード以上にストーマーズ×シャークスのような国内対決のほうが注目度は高く、観客動員数でも上回るケースが少なくない。もちろん、目標の頂点にあるのはURC制覇だ。しかし南アフリカのラグビー文化においては、南アフリカシールドで首位に立つことはそれと同等、人によってはそれ以上の価値を持つ。それほどまでに、国内対決には歴史と感情が積み重なっている。
さて、ピーターセン暫定HCの就任を境に、シャークスは明らかに息を吹き返した。停滞していたチームに再び躍動感が戻り、戦う集団としての輪郭がはっきりと見え始める。まず、この時点でのターゲットは南アフリカシールド制覇だ。勢いは確実にシャークスにあった。勝利を重ねるごとに手応えは増し、ファンも関係者も「今季こそは南アフリカシールド初制覇」という確信を強めていった。
しかしラグビーの神様は、新人HCにそう簡単に微笑んではくれなかった。延期になっていたURC第8節の相手はライオンズ(2月21日)、そして南アフリカ勢同士の最終戦となる第12節はブルズ(2月28日)。いずれも本拠地を「ハイヴェルト」と呼ばれる標高1400〜1500メートルの高地に置くチームである。海抜ほぼゼロメートルの海岸都市ダーバンを本拠とするシャークスにとって、環境条件の大きく異なるエリスパーク(ヨハネスブルグ)、そしてロフタス・バースフェルド(プレトリア)は、これまでも容易に勝利をつかめるスタジアムではなかった。
結果としてシャークスは、ライオンズに22-34、ブルズには12-41で敗れ、2連敗を喫した。特にブルズ戦は内容的には惨敗といって差し支えないだろう。
この試合は、最初の15分こそ拮抗していた。しかし15分、ブルズのCTBカナン・ムーディがトライを挙げて均衡を破ると、続いて、ついにスプリングボックスのキャンプにも招集されたWTBセバスチャン・デクラークが追加トライ。そのあたりから試合の流れは完全にブルズに傾き、シャークスは防戦するシーンが多くなった。前半終了時点でスコアは0-22。試合の主導権は完全にブルズが握っていた。ブルズのSOハンドレ・ポラードは、この日はキックの精度が珍しく低く、本来ならさらに点差が開いていてもおかしくなかった。実際、試合内容には点差以上の実力差が感じられた。
この2連敗の原因として、ハンドリングミスの多さや、組織的ディフェンスの綻びなど、技術的な問題はいろいろあった。しかし試合前から懸念されていたが、単純にベストメンバーを揃えられなかったことが、結果に最も大きく影響したのではないかと思われる。
特にライオンズ戦では、多くのスプリングボック級の主力選手が欠場した。昨年11月のウェールズ戦で起こした “目潰し事件” により、12週間の出場停止処分を受けているLOエツベスと負傷中のHOムボナンビの不在はある意味、やむを得ない。しかし、2人に加えてPRンチェ、FLコリシ、SHウィリアムズ、CTBエスターハイゼン、そして、CTB/WTBフッカーといった主力も、代表選手の身体的及び肉体的負担を軽減するための休暇制度である “Welfare Rest Protocols” により出場できなかった。続くブルズ戦もFLコリシ、SHグラント・ウィリアムズ、そして、CTB/WTBフッカーが引き続き欠場。またFBファッシはライオンズ戦で負った肩の負傷により長期離脱となった。
この“Welfare Rest Protocols” に関しては、スプリングボックスの主力選手を数多く抱える日本のリーグワンのクラブにも影響を及ぼしているが、南アフリカ国内のフランチャイズも同様にこの制度を順守している。そして、南アフリカ国内のフランチャイズの中で最も多くのスプリングボックス選手を擁するシャークスが、その影響を大きく受けるのは避けられない。
この “Welfare Rest Protocols” は2018年にラッシー・エラスムスがスプリングボックスのHCに就任して以降、より厳格に運用されるようになったといわれている。エラスムスHCが代表選手のオーバーワークを防ぐことを重要視しており、各フランチャイズに対してもその方針への理解と協力を求めているという。
スプリングボックスの長期的な強化を考えれば、この制度の意義は大きい。しかし、その代償としてフランチャイズが短期的な戦力低下を受け入れざるを得ないという現実もまた存在する。今回のシャークスの2連敗は、まさにそのマイナス面を象徴する出来事だったといえるだろう。

ただし、南アフリカでは、とにかくスプリングボックスがラグビー界の頂点に位置し、各フランチャイズは代表チームのためにあらゆる面で協力するというシステムが確立されている。クラブよりも代表を優先するという考え方は広く共有されており、この原則に異論を唱える関係者はほとんどいない。もちろん、元スプリングボックスでもあるピーターセンHCも、この原則を十分に理解しており、今回、主力選手の欠場についても、不満を表明することはなかった。
むしろピーターセンHCは、この状況を前向きに捉えて「(代わりに出場する)若手選手たちが手を挙げるチャンスだ」と語り、「私自身にとっても、ジュニアからシニアへ移行する段階の選手や、これまで十分な試合時間を得られていないシニア選手など、中間層の選手たちが週ごとに成長しているかどうかを確認する機会になる」と最近のインタビューで述べている。
もっともピーターセンHCの胸中を思えば、URC南アフリカシールド優勝がかかった重要な局面で、約半数のポジションにベストメンバーを並べることができない現実を、指揮官として看過できるはずがない。そして、ピーターセンHCが「成長しているかどうかを確認したかった」選手たちは、2試合の結果からは、期待に応えられなかったと判断せざるを得ない。
この2試合の結果、URC南アフリカシールドの優勝チームは、今シーズン好調のライオンズに決まった。3月7日にはブルズ×ストーマーズの一戦が残っているため最終順位はまだ確定していないが、現時点でシャークスは2位につけている。
そして総合順位では、シャークスは9位から11位へと後退した。前述のとおり、プレーオフに進出するためには8位以内に入る必要がある。今後、カーディフなど上位チームとの対戦も控えているが、残り6試合は全勝するくらいの勢いがなければプレーオフ進出は厳しいだろう。
ピーターセンHCは、先のチームミーティングで、選手たちが沈黙した場面のあとにこう語った。
「シャークスのジャージに誇りを持ってほしい。最初は技術的なことは気にしなくてもいい。とにかく全力を尽くしてほしい。皆さんにとってこのジャージを着ることの意味を理解してほしい。皆さんは世界でも有数のクラブを代表しており、熱狂的なファンに支えられているのだから」
ミスター・シャークスは、まずチームに対する誇り、チーム愛、そしてロイヤリティを取り戻すことから始めようとしている。
いまのシャークスにはスプリングボックスの主力選手も多く、人材は揃っている。実際、ケープタウンで3月2日から3日間にわたっておこなわれた、国内フランチャイズ所属選手によるアライメントキャンプでは、シャークスからブルズと並ぶ最多の15名が招集された。
あとは、ピーターセンHCのシャークスに対する熱い思いがどこまで選手たちに伝わり、それをピッチ上で体現できるかにかかっているだろう。シャークスの今後に期待したい。
【プロフィール】
杉谷健一郎/すぎや・けんいちろう
1967年、大阪府生まれ。コンサルタントとして世界50か国以上でプロジェクト・マネジメントに従事する。高校より本格的にラグビーを始め、大学、社会人リーグまで続けた。オーストラリアとイングランドのクラブチームでの競技経験もあり、海外ラグビーには深い知見がある。英国インペリアルカレッジロンドン大学院経営学修士(MBA)修了。英国ロンドン大学院アジア・アフリカ研究所開発学修士課程修了