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【Feel in Argentina/番外編】アルゼンチンラグビーの礎を作った人、フランシスコ・オカンポ。
フランシスコ・オカンポは1902年、アルゼンチン・カタマルカ生まれ。ラグビーに捧げた生涯は、世界で戦うプーマスの礎となった。(セバスティアン・ペラッソ氏提供)

【Feel in Argentina/番外編】アルゼンチンラグビーの礎を作った人、フランシスコ・オカンポ。

中矢健太

 アルゼンチン代表 “プーマス”は、2025年を6勝7敗で終えた。シーズンは負け越すも、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズからの初勝利は、国民やサポーターにとって特別なものとなった。

 今からおよそ100年前、アルゼンチンは遠征してきたライオンズに歴史的な大敗を喫した。プーマスや州のクラブは9戦を交え、合計308点もの大量失点を許す。しかし、いち観客として試合を見ていたある人物は、この屈辱的な現実をきっかけにコーチングに目覚め、今日のアルゼンチンラグビーの礎を作った。
 名前をフランシスコ・オカンポといった。

 彼が最も時間を捧げたのは、ブエノスアイレス郊外にある陸軍高等学校 「リセオ・ミリタール」(Liceo Militar) のラグビークラブだった。同校は軍事教育や科目を取り入れた学校ではあるが、生徒の大部分は一般の大学へと進学する。過去の大統領や政治家、実業家の出身校として有名な教育機関だ。

 2面あるグラウンドでは、グラウンドキーパーたちが芝の手入れをしていた。その一人に尋ねた。

「あなたはフランシスコ・オカンポを知ってる?」

 彼はホースを置き、ニコッと笑って、両手で天を拝んだ。

「もうとっくに上にいってしまったよ」

 オカンポは、このリセオ・ミリタールでのコーチングで、膨大な情報収集からスクラムの戦術「バハディータ」を編み出した。それは後に、クラブからプーマスに持ち込まれ、国内のラグビーに変革を起こすのみならず、世界の強豪国への仲間入りを果たす主因となった。

フランシスコ・オカンポ。リセオ・ミリタール75周年記念誌より


 1970年に心臓発作でこの世を去ったオカンポの情熱は、師弟関係にあったカルロス・〝ベコ〟・ビジェガスに受け継がれた。
 ビジェガスはオカンポの死後、プーマスのヘッドコーチとしてバハディータをさらに確立させ、アルゼンチンを世界の強豪国へと押し上げた。その後、1988年に飛行機墜落事故に巻き込まれ、志半ば42歳という若さで亡くなる。現地での証言を元に、2人の駆け抜けるような生涯に迫った。

 フランシスコ・オカンポは、カタマルカという比較的貧しい地域で育った。馬に乗って過ごし、都会の喧騒とは無縁の生活を送っていたという。のちに有名になってから、オカンポは親しみを込めて「カタマルカ・オカンポ」と呼ばれたが、田舎者で貧乏というイメージが拭えないことから、あまり好まなかった。彼の死後、カタマルカには功績を称えて「オカンポ・ストリート」と命名された通りがある。

 オカンポは20歳のときにブエノスアイレスへ移った。大学生として農工業を学び、教職の道を歩むためだった。このとき、友人に連れられて見たラグビーに魅了されたことが人生を変える。その時代、アルゼンチンでラグビーはいまほど広まっておらず、限られた都心部にしかなかった。

 オカンポの人生はラグビーへと没入していく。ヒンドゥというブエノスアイレスのクラブで数年間プレーした後、34歳で引退。ポジションはスタンドオフだった。

 オカンポの人生を決定付けたのは、1927年のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズによるアルゼンチン遠征だった。公式記録によると、ライオンズは、アルゼンチン代表やクラブチームと合計9戦を交え、308点を奪取した(1試合平均およそ34点)。
 一方、アルゼンチン側の合計得点は、わずか12点。当時のトライは3点で、どれもスコア以上に一方的な試合だったことが分かる。

 25歳だったオカンポは、観客としてこの大敗を目の当たりにした。ひとりのアルゼンチン人として、完膚なきまでに叩きのめされた憤りと同時に、国際試合で対等に戦うためには最新の戦術、知識が不可欠であることを冷静に悟った。コーチングを本格的に志す原点となった。

 初めてコーチを務めたクラブは、オールド・ジョージアンというクラブだった。1937年からリーグ優勝3連覇に導いたあと、彼は冒頭のリセオ・ミリタールに体育教師として赴任する。現在、同クラブで理事を務めるロベルト・デ・レオン(Roberto De León)さんは、クラブ内で語り継がれている当時の状況を語った。

現在、リセオ・ミリタールで理事を務めるロベルトさん。ご息女がスタッフを務めるカフェにて取材を受けてくれた(撮影:中矢健太)


「ある日、サッカーをしている生徒たちが殴り合いの喧嘩をしているのを、学校のトップである大佐が目撃したんです。大佐はサッカーを禁止にしました。生徒たちはやるスポーツがなくなってしまった。そこへオカンポが通りかかり、『君たちは何をしているんだ?』と聞くと『なにも。やることがないんです』、『じゃあラグビーをやろう』ということになったのです。こうして、サッカーをしていた学生がラグビーを始めていったんです。あの大佐のおかげです(笑)」

 この「勧誘」を繰り返し、オカンポは学生たちを徐々にラグビーへと引き込んでいった。その中には、その先でオカンポの意志を継ぐことになるビジェガスもいた。彼はサッカーではミッドフィルダー、ラグビーではプロップとしてプレーした。

 オカンポは非常に厳しい性格の持ち主だった。今でも語り草となっているのは、彼が晩年にコーチを務めたSIC(San Isidro Club/サンイシドロクラブ)という名門クラブでの出来事だ。ロベルトさんは言う。

「オカンポが初めてSICのトレーニングに行った夜、ロッカールームで選手たちは静かに座っていました。 SICの半分は代表選手で、トップレベルのクラブでした。そこへ帽子を被ったこの老人が現れ、叫んだのです。“ ¡Pararse!(パラールセ:起立)” 彼らは立ち上がりました。“¡Sentarse!(センタールセ:着席)”。これを何度も繰り返してから、練習が始まりました。のちに彼は『もし彼らが起立や着席をしなかったら、私はその場で去っていただろう。しかし彼らが従ったので残ることにした』と語っています。古風で厳しく、ある種の独裁者のようでもありました」

 ただ、その厳しさの対象は他人だけでなく、自分も例外ではなかった。オカンポは、最新の戦術や知識のインプットを怠らなかった。当時、映像資料は皆無に等しく、学ぶための手段は書籍しかなかった。自身の原点にもなったブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとの大敗から、オカンポは海外に目を向けていた。

 オカンポの実孫であるマルコス(Marcos Ocampo)さんは、オカンポ自身がどうやって知見を蓄えたのか、父を通して聞いたことがあった。

現在、オカンポの伝記を執筆中のセバスティアン氏がかき集めた膨大な資料。(撮影:中矢健太)
初めてコーチを務めたオールド・ジョージアン・クラブからの感謝状も。(撮影:中矢健太)

「昔、ブエノスアイレスのダウンタウンに “McKern”(マッカーン)という、外国語書籍の専門店がありました。新しい本が出たと知ると、電車でマッカーンまで行き、注文したのです。 当時は電話も普及していませんでした。注文してから4か月、半年、時には1年もかかって、本が届きます。しかし、祖父に英語の素地はありませんでした。英西辞典を購入して、翻訳に数か月、読むのにさらに数か月をかけました。

 相当な努力だったはずです。辞書以外に何もない状態で外国語の本を読むなんて、どれだけの時間を費やしたか想像もつきません。国内では『ウェールズ系だった妻が本を翻訳してあげた』という逸話がよく語られます。たしかに祖母はウェールズにルーツを持つ移民でしたが、スペイン語とフランス語の話者で、英語はまったく読めませんでした。つまり真実は、彼が辞書だけで翻訳して、英語で書かれたラグビー書を読み、学んだのです。辞書片手に、それだけです」

 読み漁るように読書に熱中したオカンポに最も影響を与えたのは、1905年のイギリス遠征でオールブラックスのキャプテンを務めたHOデイヴィッド・ギャラハー(David Gallaher)の『The Complete Rugby Footballer』、そして1924年のイングランド代表キャプテンだったFLウィリアム・ワヴェル・ウェイクフィールド(William Wavell Wakefield)の『Rugger – The History, Theory and Practice of Rugby Football』だった。
 どちらも、当時において最新の戦術や理論が盛り込まれており、オカンポはこの2冊を繰り返し読み、自身の軸とした。

 こうした孤独な努力から編み出されたのが、「バハディータ(La Bajadita:沈み込み)」という、スクラムの戦法だった。簡潔に要約すると、下記の3点にまとまる。

・スクラムを組む瞬間に、8人の膝が芝生に触れるほどの低さまで沈み込む。
・8人が1つのカタマリとして押し込む。
・本来フッキングするフッカーも、プッシュに専念する。結果として、パックがボールの上を通過することでボールを確保する。

 当時、この「8人全員で押す」という発想は斬新で、リセオ・ミリタールの代名詞となった。オカンポはその指導法として、アマンサンドーラ (Amansadora:スクラムマシン)を徹底して使わなかった。押し込む感覚を培うために、常に対人で組むことにこだわった。

 バハディータによって名の知れ渡ったオカンポのところへ、ある日、アルゼンチン協会から手紙が届く。プーマスの共同コーチとしてのオファーだった。言わずもがな、自国の代表チームを率いることは指導者にとって最高の名誉だ。しかし、彼は即日それを断った。A4用紙いっぱいに書かれたレターを、彼はたった2行の手紙で返した。

「『To be or not to be(注:ハムレットの引用)』。この件は、私が一人でやるか、やらないかです」

 彼はコーチングの際、常に単独での指揮を望んでいた。そして、たとえ代表チームからのオファーだったとしても、自身の考えにそぐわなければ断る。頑固で、きっぱりとした性格だった。

 1969年、67歳のオカンポはSICへの指導にあたった。心臓を患い、体調は万全ではなかったが、旧来の友人たちと交わしていた約束を果たすためだった。そんな義理堅い一面もあった。
 SICはブエノスアイレスの名門クラブで、良い選手が集まる。最近ではTOP14・モンペリエに移籍したプーマスの若手CTBフスト・ピカルドがこの出身だ。当時は1部リーグの降格圏内に低迷して、再起を図っていた。

 オカンポは前出の「起立! 着席!」のストーリーに表れるような厳格な規律をいきなり持ち込み、チームは混乱した。選手たちは、簡単にオカンポを受け入れなかった。しかし両者の関係は、実践をもって融和していく。SICのホームページには回想記事が掲載されている。

「ある日、リセオ・ミリタールとの親善試合が組まれた。オカンポが長年指導していた3部リーグのチームだった。最初のスクラムが組まれ、フォワードたちは体を密着させ、一つのカタマリとなった。SICの選手たちは教えられた通りに組もうとした。フロントローがコンタクトし、スクラムハーフがボールを投入した瞬間、 SICのパックはまるでブルドーザーに押されたかのように後退させられた。私たちは驚きの表情で立ち上がった。しかし、そのとき交わされた視線には一つのメッセージがあった。『おい、あのオヤジが言っていることは正しいみたいだぞ…』」(San Isidro Club)

SIC(San Isidro Club)のクラブハウス。ブエノスアイレスの名門クラブで、海外から来た遠征チームの多くはここの施設を使う。オカンポは晩年、ここのコーチを務めた。(撮影:中矢健太)


 バハディータはSICに持ち込まれ、選手たちに実装されていく。のちに、これが代表にも浸透していくことを踏まえると、1969年はアルゼンチンラグビーにとって大きな転換点だった。

 前シーズンは降格圏内だったSICは、8連勝の大躍進を遂げた。ところが、優勝まっしぐらで進んでいた矢先、オカンポの体調はいよいよ練習に来られないほど悪化した。グラウンドにオカンポの姿が見えなくなってから、チームは3連敗を喫し、4位でシーズンを終えた。

 ただ、勝てるチームに生まれ変わった要因は、決してバハディータだけではない。オカンポの根本には、教育者としての価値観があった。
 マルコスさんは強調する。

「祖父は私が生まれる前に亡くなったので、直接会ったことがありませんが、非常に厳格な人だったと家族からは聞きます。リセオ・ミリタールのように軍隊的な規律や環境ともフィットしていたのでしょう。しかし一方で、彼はれっきとした教育者でもありました。メディアは彼のスクラム技術に注目しますが、この教育者としての側面が等しく重要なのです。彼が残した言葉は、今でもアルゼンチンのラグビーコミュニティでよく使われています」

 いくつか、オカンポが残した言葉を挙げる。

「スポーツの価値は、それが残す教育の質によって決まる」
「チェーン(鎖)の強さは、最も弱い輪で決まる」
「『私』を後回しにし、『私たち』を発見しなさい」
「不正によって得られた見せかけの成功は、失敗をごまかしているに過ぎない」
「対戦相手に感謝しなさい、レフェリーに感謝しなさい。彼らのおかげで君たちはラグビーを楽しめるのだから」
「ラグビーは『人生の学校』である」

セバスティアン・ペラッソ氏は法曹関係の本業、ジャーナリストと2つの顔を持つ。父はプーマスのコーチをビジェガスと務めた。ビジェガスの伝記は現地で出版済み。「日本語版も出版したい」(撮影:中矢健太)


 現在、オカンポの伝記を執筆しているセバスティアン・ペラッソ氏は、法曹関係の職に就きながらラグビーの普及活動にも尽力している。オカンポが重点を置いたのは、やはり教育的な側面だった。

「彼は厳格で、かなり権威主義的なスタイルでした。それでも彼はチームを勝たせるので、その存在を求める声は多く、生涯で10以上ものチームを指導しました。しかし、どれも長期間は続きませんでした。あまりの厳しさに、選手たちがついていけなくなったのです。

 ただ、彼は選手への共感性も持っていました。オカンポの哲学というのは非常に強力で深く、多くの人々に伝承されて今日も生きています。特に、これらの言葉にも表れるようにフェアプレーの信奉者でした。『我々は真のスポーツマンでなければならない』。『勝利においては、寛容かつ礼儀正しくあれ。そして敗北においては我慢強く、礼儀正しくあれ』」

 翌年の1970年の4月。公式戦のシーズンが始まってまもなく、オカンポは患っていた心臓の発作で生涯を閉じた。享年68。現在、リセオのグラウンドに設置されているスタンドには、オカンポと彼を支えた妻・スサナの愛称「プンバ」の名が刻まれている。

 一人の男がラグビーに注いだ一途な情熱と孤独な研鑽は、やがてこの国のラグビーの基盤を築いた。それは、教え子であるカルロス・〝ベコ〟・ビジェガスをコーチの道へと導き、確かな遺産として受け継がれていく。(つづく)

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