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「最高のラグビーをして、金メダルを獲りにいく」
リオ、東京、パリのパラリンピック3大会連続で、車いすラグビー日本代表のキャプテンを務める池 透暢。司令塔として、精神的支柱としてチームを力強くけん引する。
「私のストロングポイントは精度の高いパスでチームを勝利に導くこと、そしてディフェンスのハードワークでチームを引っ張るところです。パリ大会ではそういった姿を見て応援して頂きたいです」
万感の思いを胸に、パラリンピックの大舞台に立つ——。
1980年生まれの高知県出身。人生を大きく変えたのが19歳のときに経験した交通事故だった。乗っていた車が炎上し全身に7割以上のやけどを負った。左脚を切断、左腕には麻痺が残る。熱傷治療のための手術は2年半で40回に及んだ。
入院中、中学時代に所属していたバスケ部の恩師に会い、世界の舞台を目指すことができる車いすバスケットボールの存在を知った。10年にわたる猛練習により、車いすバスケで強化指定選手に選出されるも、パラリンピック日本代表に池の名前はなかった。
転機が訪れたのは、2012年。日本が出場したロンドン・パラリンピックの車いすラグビー3位決定戦をテレビで観て、この競技なら自分の強みが活かせる、と転向を決めた。
自身も障がいを負った事故で、同乗していた3人の友人を亡くした。
残された自分は友人たちのために何ができるのか…。
悩み苦しんで出した答えは、友人たちの分まで“生きた証”を残すということだった。パラリンピックのメダルという形で〝生きた証〟を示したいと考えた。
「僕は日本代表になりたくて競技を転向したわけではなく、パラリンピックに出場してメダルを獲るということが重要だった。メダルを獲るためだけに、(車いすラグビー日本代表)チームを成長させたいと転向を決めた。転向したからには結果を残さなければ僕の犠牲は終わらないし、自分のために生きるということが始まらない。亡くした友人たちへの思いがすべて。メダルを獲って証を見せたいという思いでラグビーをスタートした」
車いすラグビーに転向した翌年には日本代表の強化合宿に招集され、2015年から代表でキャプテンを務める。
バスケットボールと同じ広さのコートを使用する車いすラグビー。コート全体を見渡す視野の広さやボールハンドリング、車いすバスケで培った車いす操作が大きなアドバンテージとなった。
◆障がい者スポーツ、そして私たちの価値が大きく変えられるチャンス。
残った右脚は膝が曲がらないため、必然的に、バランスを崩しやすい高いラグ車(ラグビー競技用車いす)でプレーしなければならなかった。だが、その高さを自身の強い武器にしてみせた。
池の代名詞でもある正確無比なロングパスは日本を躍進させ、リオ・パラリンピックで史上初の銅メダルを獲得した。表彰式で池は、〝生きた証〟を高らかに天にかざし、友人たちに報告した。
自国開催となる東京パラリンピックに向け、新たな挑戦が始まった。
パラリンピックへの関心や世間の注目度の高まりに、パラアスリートとしての使命を見出した。
「この機運は本当に何かを変えられるんじゃないか。障がい者スポーツ、そして私たちの価値が大きく変えられるチャンスだ」
金メダル獲得を明確な目標と定め、いくつもの課題に取り組み、悲願達成へのマイルストーンとなった2018年の世界選手権では、史上初の世界王者という快挙を成し遂げた。
さらなるパフォーマンス向上を目指して、池はフィジカルを強化し、2018-2019シーズンには車いすラグビー強豪国・アメリカのリーグにも挑戦した。
すべては順調かと思われた。
しかし、新型コロナによるパンデミックにより東京2020大会は1年延期。ようやく迎えた自国開催のパラリンピック、会場は静まり返っていた。
日本は予選ラウンドを3戦全勝でトップ通過し、イギリスとの準決勝に臨んだ。立ち上がりから精彩を欠く、らしくないプレーが続き、リズムをつかめないまま試合終了となった。金メダルへの道が断たれた瞬間だった。
絶望の中、もう一度チームを奮い立たせて挑んだ3位決定戦。最後は自分たちのラグビーを出し切ってパラリンピック2大会連続の銅メダルを獲得。リオの銅とは違う、涙と悔しさの銅メダルだった。
あれから3年が経った今、「2020年は本当に準備万端で最高の状態だった。たらればは言いたくないが、2020年に、しかもたくさんの応援がある中でやっていればどうだったんだろうって。それが惜しいわけじゃないけど、だったらなぁと感じるときはありますね」と苦笑しながら、池は心の声をもらした。
東京パラリンピックが終わってから1年は、車いすラグビーの普及活動に時間を費やした。
過去最高に注目されたパラリンピックの機運を、社会での認知を広げるために生かしたいという思いからだった。
そうして、パリに向け再びギアを入れ、トレーニングに没頭する日々が戻ってきた。
2022年のカナダカップで日本は初優勝し、世界ランキング1位に上り詰めた。続く世界選手権では銅メダルを獲得した。
◆いまの日本ラグビーをパラリンピックで見せる。
徐々に照準がパラリンピック本番へと向けられ始めた2023年。
パリ・パラリンピック出場権をかけた「アジア・オセアニア選手権大会」を目前に、チームに衝撃が走った。
2017年から6年にわたり日本代表を指揮したケビン・オアー氏が、体調上の理由から退任することが告げられた。
「心にぽかーんと穴が開いたような感覚だった。ケビンとやってきたことに対して自信があったし、これからどう強くなってパリで金メダルを獲るのかを思い描きながら進んでいたので、夢じゃないかっていうくらいショックだった」
それほどまでに、オアー氏との出会いは池の人生に大きな影響を与えていた。
就任当初は、「めちゃくちゃ怒られたり、(オアー氏の言うことに)首をかしげる瞬間もあった」という。
だが、次々とそれが成功へと変わっていく中で絶大な信頼が生まれた。
30年のコーチ歴を持つオアー氏の失敗談や経験、釣り好きという共通点、そして「ラグビーだけが人生ではない」、「家族との時間もすばらしいものにしなさい」という哲学にも触れた。
「彼のようなコーチになりたいという思いも芽生えた」
オアー氏と臨んだ最後の大会。池、そして日本代表全員が、6年をかけて築いてきた〝オアー・ラグビー〟をコートで体現し、パラリンピックの切符とともに感謝を伝えた。
記憶に残る魂の試合も、尊敬する名将との別れも、ケガや苦い思いも経験した、東京からの3年間。
仲間と積み上げてきたものがある。
「熱いラグビーではあるけれども、粘り強くて、屈しない。それでいて丁寧で、精度が高い。個のスピードで抜いてトライを奪うのではなく、連係のすばらしさが際立つ。そんな、いまの日本ラグビーをパラリンピックで見せたい」
大きな歓声が響くパリの会場で、ニッポンのラグビーが躍動する。
自身3度目となる大舞台。池は強い覚悟をにじませた。
「最高の結果を出したいという思いはすごく強い。そのために時間と努力を費やしてここまで来た。最高のラグビーをして、金メダルを獲りにいくという気持ちをブレずに持ち続け、必ず達成したい」
「ただ、自分たちのベストな状態というのは、闘志を燃やしまくっている状態ではない。自信がある中で冷静さを持ち、確実に相手を仕留めていくというような戦い方になる。自分たちのやるべきことを徹底してやり続ける。そういうラグビーで金メダルを獲りたい」
車いすラグビー日本代表キャプテン、池 透暢。
意志を貫き、日本を勝利へと導くため、いまを生きる。