根っからのアスリート気質。決めたゴールへ向けて、最短距離を走る人だ。
サクラセブンズのひとりとしてリオ五輪(2016年)に出場した桑井亜乃が、2021年の夏はパリ五輪にレフリーとして参加する。
レフリーを始めて3年。プレーヤーとレフリーの両方で五輪の舞台に立つのは世界のラグビー界で初めてだ。
誰も走ったことがない道を、驚くべきスピードで走り切った。
なぜ、そんなことができたのか。
人にそう問われると、桑井レフリーは必ず、「3年でパリに行くと、口に出して言ったからです」と答える。
言ったからには責任がともなう。人の目がこちらに向くのだから、自分で自分を鼓舞して走り続けた。
目標を広く伝えたことで、支えてくれる人、応援してくれる関係者も増えたと実感している。
「そのお陰です。感謝。感謝です」
北海道出身の34歳。ラグビーを始めたのは22歳の時だった。
中学時代は砲丸投げ、帯広農高、中京大と円盤投げの選手として活躍した。大学の授業でラグビーと出会った。
すぐに面白さにはまる。志望していた教員への道を変更した。
Rugirl-7、アルカス熊谷と、楕円球に浸る生活を過ごした。
プレーを始めてから1年経った2013年、香港女子セブンズで初キャップ。2016年のリオ五輪に女子セブンズ日本代表の一員として出場した。
サクラセブンズで32キャップを獲得。15人制女子日本代表のキャップも1つ持っている。
リオ五輪出場後、東京五輪も目指した。
その足取りにはアップダウンこそあったが、2018年のアジア競技大会に出場、金メダルを獲得した。
しかし、コロナ禍により1年遅れで2021年に開催された東京での祭典への出場は叶わなかった。
同年8月31日、現役引退を表明。同時に、レフリーとして2024年のパリ五輪を目指すことも明言した。
以前に、トップアスリートからレフリーに転じるプロジェクトの候補者として声をかけてもらったことがきっかけだった。
前述のように、「3年でパリへ」と口に出して言ったからこそできたことがあった。
頑張って。応援している。
あたたかい声が届く。
うちに来て笛を吹いてもらってもいいよ、の声も。
最近は浦安D-Rocksの練習に参加し、感覚を高めた。
簡単なことではないぞ。
そんな厳しい声も届くのだけど、支援者のサポート、それに応えたい気持ちがあったから、前に進む足を止めることはなかった。
積極的に海外に出られたのも、多くの人たちが環境を整えてくれたからだ。日本協会のサポートもあれば、個人的なツテを頼ることも。
持ち前の向上心と積極的な性格を強みに経験値を高め続けた。
自ら選んだ道だけど、心が折れそうになったことが何度もある。
特にきつかったのは、2023年の3月、4月頃だった。
パリの舞台から逆算すれば、そのあたりでおこなわれる大会でのパフォーマンスが重要なのは明らかだった。
ワールドシリーズの2023-24シーズン(2023年12月〜2024年6月)を常時担当する力量があるか否か、選考者がレフリーたちをふるいにかける。プレッシャーを感じた。
選ぶ、選ばないは、人が決めることだ。重圧を感じなからも、「普通では成し遂げられないことは、当たり前のことをやっていてもだめだ」と、サクラセブンズ時代に叩き込まれたスピリットで突き進んだ。
2023年4月、初めて香港セブンズの舞台を踏むことはできた。
良いパフォーマンスをしないと道は閉ざされる。持てる力をすべて出した。ピッチの上は当然、信頼を得るため、細かなところまで気を配った。
香港から数週間後の4月の下旬、南アフリカで開催されたワールドラグビー・セブンズチャレンジャーシリーズのマッチオフィシャルにも選ばれた。
4月20〜22日、4月28日〜30日と2週末に渡って実施された大会だった。
各セブンズ大会のマッチオフィシャルに選ばれると、プールステージの試合の担当は各レフリーに均等に割り当てられ、パフォーマンスによって、ノックアウトステージ、ファイナルの担当者が決められる。
そのスポットを得る者が、次のステージへのパスポートを手にできると言っていい。
1週目の大会、ファイナルで笛を吹いたのはオーストラリアのレフリーだった。その結果を受け、桑井レフリーは行動を起こした。
担当者にディスカッションの時間を求めた。「その大会でファイナルを吹けないことには、2023-24シーズンのワールドシリーズの舞台には立てないと思ったので」と回想する。
自分のパフォーマンスはどうなのか。どうすればいいのか。
私はファイナルを吹きたい。
そのために必要なことを教えてほしい。
流ちょうに英語を話せるわけではない。だから、情熱をぶつけた。
きっと、その思いは届いた。
2週目の大会のファイナルは4月30日だった。17-14と競った南アフリカ×ベルギーのレフリーを務めた。
その先にワールドシリーズ2023-24のパネルレフリー(シリーズ担当マッチオフィシャル)入りが待っていた。その舞台で結果を残したことで、オリンピック出場が叶った。
7月15日のジャパンセブンズではファイナルなど数試合で笛を吹き、その夜、ポルトガルへ飛んだ。
現地ではパリ五輪を担当するマッチオフィシャルの事前合宿が行われている。フィットネスのトレーニングを繰り返し、大会中のレフリングについての擦り合わせなども。
その後、パリへ入る。
ハードスケジュールだ。しかし、ジャパンセブンズには自ら志願して参加した。スピードある男子のプレーに触れることで、感覚を維持しておきたかった。
「飛行機に乗れば寝るだけですから。セブンズの感覚を落としたくなかったし、その方が、いい形でオリンピックに入れるかな、と判断しました」
独特の空気が漂うオリンピックを、プレーヤーとして経験していることは財産だ。
それを知っているから、「選手たちがノーストレスでプレーできるようにサポートしたい」と話す。
現役引退後、前だけを向き、全力疾走をしてきた。
「オリンピックはここ。レフリー人生もここ。この3年、とブレることなくやってきたので、正直、あとのことは見えていません」と話す。
リーグワンでレフリーを務めた女性レフリーはまだいない。そこを新たなターゲットに定める考えもおぼろげにある。
2016年にともにリオ五輪に出場した中村知春も、パリへ行く。8年ぶりの五輪も、サクラのエンブレムを胸にピッチを駆けるのは驚きだ。
中村のことを同志であり、友人、リスペクトする先輩(1歳違い)と思っている。
自分たちが選から漏れた東京五輪の時は、サクラセブンズの試合を一緒に見た。
それだけに「いちばんきついときの姿を知っているので、そこからまた立て直し、いま、いちばんピークと言っていい状態にまで持ってきたのが凄いと思います」と言う。
「尊敬しています。女子ラグビー界を、体で引っ張ってくれているのは中村さん。彼女が頑張っているから私も頑張んなきゃ、と思うし、私自身も、違う方向で(女子ラグビーを)引っ張らないと、と思っています」
出国の数時間前、「1試合でも(レフリー担当試合を)もらえたら嬉しいですね」と肩の力を抜いて数週間後のパリに思いを馳せた。
「持っている力を、最高の舞台ですべて出し切りたい」
その思いは、選手の時も、いまも、何も変わらない。