中村知春がアニキなら、こちらは妹的存在。広く名前が知られるようになったのが早かったからか、周囲から長く「ゆめちゃん」と呼ばれてきた。
女子セブンズ日本代表の初キャップを得たのは市立船橋高校の3年生、18歳の夏のこと(2012年)。
U18女子日本代表として、U18香港代表と戦ったときは高校に入学した直後(2010年)。まだ15歳だった。
2016年のリオ五輪にも出場している。2022年9月に南アフリカで開催されたワールドカップセブンズまでに重ねたキャップは35。
そんな足跡を残してきた大黒田裕芽は30歳になった。
7月24日には、自身のSNSで「2024年セブンズシーズンをもちまして23年間の現役生活を引退する決断を致しました」と引退を発表した。
そこには、これまで所属してきたラグビースクールや学校、クラブや、ともに楕円球を追った仲間への感謝を伝える言葉が綴られた。
ラグビーへの愛と、世界を旅した幸せな競技人生の想い出や、アスリートとしての信条も。
「競技を続ける以上、成長し続ける選手でいたいと思ってきました」
8月、現在暮らす場所からさほど遠くない中央線沿線の公園で会った大黒田の表情は、とても穏やかだった。
現姓は山田。中学時代のラグビー仲間と再会し、入籍したのは2023年の秋だった。伴侶となった皓也さんは、横河武蔵野アトラスターズに所属している。
ブーツを脱ぐ決断は、誰かに相談するでもなく自分で決めた。
大会創設時から活躍してきた太陽生命ウィメンズセブンズシリーズの2024年度シリーズを終えたタイミングを区切りにした。
大会は5月下旬に終わった。
引退の意思表示をするのが7月になったのは、同13日、14日に実施された『Women’s College Sevens 2024/第11回大学女子7人制大会』に出場する、クラブの大学生たちをサポートしたためだ。
「(2月の)15人制のシーズンが終わったタイミングで辞めようかな、とも思っていたのですが、その後にチームのオーストラリア遠征や香港遠征もあった。日本に戻った後、やるかどうか迷っていたセブンズのシーズンも始まりました。で、セブンズシーズンが終わった時、やり切った感があった」
忙しかったラストシーズン。それを終えたとき、しばらくのオフを経て、ふたたび15人制シーズンへの準備に取り組む自分の姿が想像できなかった。
「(引退するのに)ちょうどいいのかな、と思った」という。
「辞めるって、こういう時なんだな、と。意外とあっさり決めました」
パフォーマンスは最後の最後まで高かった。
記憶に残るゲームを、今年2月3日、秩父宮ラグビー場で第10回全国女子ラグビー選手権大会(15人制)の決勝と言う。東京山九フェニックスが三重パールズを40-24と破り、2年連続優勝を手にした試合だ。
その試合で大黒田は10番を背負い、仲間の力を存分に引き出した。巧みなキックでWTBを走らせトライを奪うシーンもあれば、自らも仕掛けた。MVPに選ばれた。
試合前にはリーグワンのクロスボーダーラグビー、東京サントリーサンゴリアス×ブルーズ(スーパーラグビー)がおこなわれたこともあり、多くのファンが見つめた80分。
大黒田は、「女子ラグビーを初めて見た方にも、おもしろい、と思ってもらえたと思います」と話す。
引退を意識する中で、そのレベルのパフォーマンスを出せたのだから、「成長し続ける選手でいたい」の信条を貫けた。
1994年7月6日生まれ。小2のとき、兄・健人さん(帝京大出身。BIG BLUESや横河武蔵野でプレー)が通っていた松戸少年ラグビースクール(現・松戸ラグビースクール)に自分も行くようになった。
父・一人(かずと)さんは、伏見工(現・京都工学院)、福岡工業大、ユニチカでプレーした人だ。母は陸上部出身。高校時代に400メートルで日本選手権に出場した。
1つ下の妹・裕佳さんも楕円球を追った。
足が速かった。スクラムハーフながら俊足を活かしてライン参加。トライをいくつも挙げた。
小学5年時には、「将来は日本代表になる」と夢を口にしていた。2003年のワールドカップで優勝したイングランド代表の司令塔、ジョニー・ウィルキンソンに憧れた。
中学時は学校の部活は陸上競技(短距離と走り幅跳び)。ラグビーは千葉ウエストで続けた。ポジションはスタンドオフ。
市立船橋高校へ進学し、男子部員と一緒に練習し、上達した。1学年上には松橋周平(リコーブラックラムズ東京)がいて、いろんなことを教えてくれた。鈴木実沙紀、原仁以奈も松橋と同学年にいた。
高校卒業後は立正大に学んだ。アルカス熊谷で長く活躍し、名古屋クラブにも在籍。2021年から東京山九フェニックスへ。同クラブでは15人制に割く時間も多かった。
152センチの小さな体ながら国際舞台でも戦えた。いつも負けん気が真ん中にあったからだ。
子ども時代のエピソードが気持ちの強さを伝えてくれる。
小1のとき、母が応募した町のマラソン大会に出場した。2位になったのが始まりだった。
1位になれなかったことが悔しかった。毎朝、走るようにして、翌年の大会を迎えるも、再び2位。面識もなく、話したこともない前年優勝者にまた負けた。
それが4年生まで続き、5年生になって初めて勝つ。
「あの子のお陰で頑張れました」
キックがうまくなったのも悔しさが原点だ。
高校生になったばかりの頃、U18女子日本代表に選ばれ、U18香港代表と戦った。試合には64-0と勝ったものの、12トライを奪いながらコンバージョンキックの成功は2本だけだった。
ラグビー専門誌に「日本の女子ラグビーの課題はキック」と書いてあった。
「それを読んで悔しくて、悔しくて、それからめちゃくちゃ練習しました」
コロナ禍の影響もあり2021年開催となった東京五輪のメンバーから漏れた。
直前にあった太陽生命セブンズでの高いパフォーマンス(MVP)から選ばれると見る人も多かったが、当時のヘッドコーチの求めるものと一致しなかった。
リオに続く2度目の五輪が手からすり抜け、落選直後しばらくは笑顔が消えた。髪を一瞬だけ金髪に染めて気分転換を図ったりしたものの、心の中は悲しみより悔しさだった。
目の前の状況に関係なく、言われた通りの動きをしていればメンバー入りもあったかもしれない。
しかし、自分が走れるスペースを見つけ、仕掛けた。そんなことしなければよかったのかな、と逡巡したこともある。
「でも、そんな気持ちもすぐに忘れました」
さっぱりしている、と自己分析する。
「その時はすごく悔しかったけど、そんな思いは何回も経験してきています。だから、あのときのオリンピックの話をしても平気だし、今回のパリ(五輪)も、すごく応援していました」
悩んだことはあったとしても、ラグビーを嫌いになったことは一度もない。
子どもの頃、スクールのコーチが「ラグビーは人生と同じくらいうまくいかないことが多い」と教えてくれた。
気持ちが楽になる言葉をいつも胸に生きた。
上達のエナジーはいつも、「ラグビーが大好き」の思い。練習も試合も楽しくて仕方がなかった。レベルが高くなればなるほど夢中になった。
生意気でした。
そう前置きして、高校時代の胸中を言葉にする。週末に女子ユース代表などの合宿に行くことも多くなっていた時期のことだ。
「男子と一緒の練習や、試合に出る方を好んでいました。レベルが高かったので面白かった。なので、週末はどう行動するか(男女どちらの活動に参加するか)迷っていました」
楽しいからやっていたラグビーも、「代表」の看板を背負えば名誉とともに責任、重圧も感じるだろう。
純粋に楕円球と戯れていた時期とは違う感情も芽生えたのではないか。
リオ五輪の際は、自分に限らずサクラセブンズの誰もが、目指すは「金メダル」と言い続けた。
結果は12チーム中10位。大会の前とあとでは自分たちに向けられた目はまったく違うものになったけれど、誰も悪くない。
「言い方は良くないかもしれませんが、(五輪競技になった最初の大会で)金メダルなんて簡単に獲れるはずがないのに、目標は大きい方がいい、みたいな感じで、とりあえず『金』と言っていた気がします」
そう口にしないといけない。そんな空気もあった。
「いまのサクラセブンズの選手たちは、若い選手たちもうまい。もっと強くなっていけると思います」
オリンピック(1大会)も含め、ワールドカップセブンズ(3大会)やHSBCワールドラグビー・セブンズシリーズなど、大舞台を何度も経験している。
「ただ、そこで勝った経験(好成績)は、あまりないんです」と話す。
「それなのに」の言葉に続けて、「(勝たないといけない)日本代表の選手がこんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、どんな大会でもわくわくしていました。楽しかった。いつも、そう思っていました」。
「大好きなラグビーを思いっきりやらせてもらった」と笑顔で言う。
いろんなことがあった。
サクラセブンズの初キャップとなった2012年、マレーシアのコタキナバルで開催されたアジア・パシフィック女子セブンズでは、オーストラリアと戦った。
プールステージの試合で、自分のゴールが決まって2点差で勝った記憶は深く残っている。
2013年、モスクワでおこなわれたワールドカップセブンズでは、初戦のキックオフ早々にレッドカードを受けた。キックをキャッチしようと相手の下に体が入ったことが、危険なタックルとされた。
「でも、最終的にはイエローになり、次の試合には復帰できました。検証した結果、レフリーも明確でなく、相手が『彼女は悪くない』と言ってくれて」
2019年のワールドシリーズ、アメリカ(コロラド)大会では帰国前にパスポートを紛失。日本へ戻る仲間を見送った後、チームリエゾンの紹介してくれた初対面のアメリカ人夫妻の家で3〜4日過ごしたこともある。
現役生活のラスト2シーズンは、15人制にもしっかり取り組めた。
フェニックスの全国女子選手権2連覇に貢献。最初の優勝のあとにはサクラフィフティーンからのアプローチもあったけれど、コンディションが整わず、合宿に参加したものの強みを出す機会がなかった。
今年の優勝時は、抜群のパフォーマンスだっただけに、「呼ばれるかな、と思いましたが、ありませんでした」。
結果的に、サクラフィフティーンには縁がなかった。
「それも私らしいな、と」
引退を報告した時、夫は「もう少し見ていたかったな」と言ってくれた。なんだか嬉しい。
先のことは決まっていないが、若い世代に自分が知っていることを伝えたい思いはある。
うまくいかない時だってあるんだよ。
それが上達の原点と教えてあげたい。