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40年ほど前。就職試験の面接の場。ある大学のラグビー部員は言われた。
「君は女にもてるだろう」
いまなら許されない。いや、いつの時代でもよろしくない。
古い広辞苑、出動。もてる【持てる】①持つことができる。持ち得る。②保たれる。支えられる。③もてはやされる。好遇される。「女にー・てる」
もてる。実はこのコラムの筆者は③の意味でよく用いた。高校や大学のコーチ時代である。ラグビー指導の世界に飛び込んできた後輩に向かって。
「コーチはもてなくちゃダメだ」
ある日、元日本代表監督の大西鐵之祐さんが「コーチはチャームのあるやつでないと」と話すのを聞いた。そっくりまねるのもなんなのでチャームを「もてる」として、いま振り返れば、えらぶって諭した。
明治大学の終身監督、北島忠治さんが晩年、練習試合のあとに部員のひとりを「バカ」と叱った。活字にするとダイレクトだ。しかし、目のかすかに笑う表情や淡々とした口調によって、なんとも優しい雰囲気が漂った。ユーモアの気配すらあった。
取材記者の立場で現場にいた。のちに「チャームとはあのことだ」と思った。
鐵之祐も忠治も純粋な若者に大いにもてたのである。
「もてる」の難しさは、しばしば容姿と関わって、異性に好感を抱かれる、という方向に用いられてきたところだ。わが旧友の経験した冒頭の例である。半世紀近く前の字引きの用例(女にー・てる)がその事実を示している。

さて地球上でもっとも有名なラグビー選手は誰だろう。
イロナ・マー。もはや定説に近い。7人制女子米国代表のオリンピック(パリ大会)の銅メダリストであり、8月22日に開幕の15人制ワールドカップのスコッドにも名は残る。
世界のメディアが「有名」の根拠とするのは、SNSの「フォロワー」ってやつの数である。個人的には縁の薄い世界なので、なんだかピンとこないが、8月5日付では、Instagramが「519万」でTikTokは「360万」に達する。
28歳。昨年の本人の発言を引くと「5フィート10インチの200パウンド(約178㎝・90㎏)」(Vogue)の体格の強靭なランナーである。15人制では、おもにセンターを務める。スモーキン、蒸気機関車のごとき突進は痛快で、ラグビーの根源のおもしろさを体現、たちまちファンを引き寄せる。
マーはもてる。なぜか。「もてる」の幅を広げたからである。女性は細身であれ。いえいえ、たくましい骨格の女性ももてる。あなたはあなたなので、みんな、あなたが好きだ。
本年7月16日、ESPY(スポーツパフォーマンス年間優秀賞)の「ベスト・ブレイクスルー・アワード」の対象となり、ロサンゼルスの会場でこうスピーチした。
「強さは美しい。強さにはパワーがある。あなたがそうありたいと欲することならなんであろうと、それがセクシー。わたしが感じるそのことを、もっと多くの若い女性にも感じてほしい」
イロナ・マーは試合に臨むに際して、口紅をぬる。
「メイベリンのスーパーステイ・マットインク・リキッドリップスティックが彼女の長年のお気に入り」(womenshealthmag.com)」
マウスガードを装着、ハードなタックルを仕掛ける。唇を赤くぬる必要はあるのか。あるのだ。そうしたいからそうする。とことん自分らしく。すなわち人生。
筋骨隆々を控えめに覆う水着のモデルとしても慣習的イメージをあっさりと打ち破った。
昨年のオリンピックの開会式に臨んでの投稿。
「あらゆる体型に価値がある。どんな体型でもオリンピアンになれる。小さな体操選手、背の高いバレーボール選手、ラグビー、砲丸投げ、スプリンター。すべての身体は美しく、驚くべきことをなす。アスリートを通して自分を深く見つめれば、あなたも、きっとできるようになる」
ボディ・ポジティビティー。みずからの体をありのままに愛する。イロナ・マーを運動の社会的なリーダーと遇する向きもある。影響力は確かだ。
ここは本コラムの見解であるが、ありのままの自分をいっそう輝かせるのは、きっと自分であるのを忘れるほどの「夢中」だろう。本稿の主人公にとってはラグビーに違いない。楕円の球を抱えて少し背を丸め、地響きをたてて駆ける。そのときこそインフルエンスの発光体となる。

バーモント州に生まれた。17歳で父のたしなんだラグビーを始める。それまではバスケットボールやソフトボールやホッケーなどに励んだ。
コネチカット州のクィニピアック大学に進んで大暴れ、看護の学位を得ながら、2017年には女子学生の最優秀選手賞に浴している。
2018年に7人制のパリ大会で代表デビュー。2021年11月の対カナダで15人制のキャップを獲得する。24年暮れにはイングランドのブリストルと短期契約、グロスター戦でのレギュラーシーズン観客動員記録(9240人)をもたらした。
みけんにしわを寄せず、カラカラと笑って、たとえば「女子アスリートは女性的でない」との固定観念を「女子アスリートなら女性的であれ」という偏見もろともハンドオフで叩き落とす。
「わたしは野獣になれる。いっぽうで、自分の内面の女性らしさを保ちながら、この攻撃的で身体的なスポーツをプレーできる」(CBS NEWS)
スーパースターの存在が競技を前に進める。長嶋茂雄の登場なしに日本プロ野球は、いまの姿であれたのか。女子ラグビーどころか、ただラグビー界にとって、イロナ・マーの出現はありがたい。
おしまいに。先の受賞の言葉より。
「ここでお知らせです。ことしは女子のワールドカップが開催される。あと1カ月ほどで始まるそれが、女子ラグビーにとっての最大のイベントであると知らない人もたくさんいるはずです。見てください。ぜひチャンネルを合わせて。いちどめは理解できないでしょう。2度目も、やはり理解できない。でも、見続けてください」
わからなくても観戦しよう。もてる話し方だ。