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【楕円球大言葉】バスを降ろされて。
ハードなプレーだけでなく、献身的に動いたテオ・マクファーランド主将。(撮影/松本かおり)

【楕円球大言葉】バスを降ろされて。

藤島大

 100年前のラグビーの原初的イメージがある。1924年8月18日。西サモアのアピアの競馬場公園。朝7時。テストマッチが始まった。念のため、19時ではなく7時である。

 地元の西サモア(サモアの呼称は1997年から)とフィジーがぶつかった。どちらにとっても初めての国際マッチだ。

 グラウンドの真ん中には木があった。古い文献には「スモール」と記される。そうであってもツリーはツリーだろう。忘れちゃいけない。両チームのすべての選手は裸足で駆けた。

 6-0。黒のジャージィ(オールブラックスにあらず。このときはフィジー)が白いジャージィ(フィジーにあらず。このときはサモア)を破った。

 同年8月22日付のサモア・タイムズ紙によると「フィジーは次の遠征先のトンガへ向かう午後4時出航の蒸気船MVトフア丸に乗らなくてはならず、さらにサモアの選手が試合後に出勤できるよう」午前7時開始となった。攻防は「ときにハードであったもののラフでもダーティーでもなかった」(同前)。いくつかの記述では観客は500人から600人とされる。

 それにしても中央に木が伸びる草の上のテストマッチを終えて勤めに出る。なんともいいですね。

 100年後の大阪。サモア代表がPNC(パシフィックネーションズカップ)の3位決定戦に臨み、米国とのハードでありダーティーではない接戦を制した。

 1924年と2024年のテストマッチをつなぐ存在があった。キャプテン、テオことテオドール・マクファーランドである。28歳。身長198㎝の6番。公式発表の体重「115kg」をなかなか信じがたいスリムな体型をしている。「しなやか」。あまりにも便利な表現につい頼りたくなる。

 イングランドのサラセンズ所属。と知ったら、いかにもエリートのようだ。事実、昨年のワールドカップ(RWC)でも国際的に高い評価を受けた。

 しかし、この痩身で俊敏なバックローのたたずまいから「ローカル=母国の土に生まれ育ったラグビー選手」の匂いは消えない。

 実際、5年前のある時期までは知られざるタレントであった。2022年の本人のコメント(RUGBYPASS)をまとめるとこうだ。

 アピア郊外の村に8人兄弟姉妹の下から2番目として生まれた。家族の生活は楽ではなかった。

 2019年にバスケットボール代表で地元開催のパシフィック・ゲームズに臨んだ。トンガをやっつけ、ダンクシュートもものにできて、悪くない気分でチームのバスに揺られていたら、なぜかブレーキが踏まれた。

若い選手たちも多かった今回のサモア代表をピッチ内外で牽引した。(撮影/松本かおり)

 RWCに5大会連続選出の英雄で男子7人制代表監督のブライアン・リマがいきなり乗り込んでくる。テオを見つけるや外へ連れ出した。

 ジェイミー・ライアル記者のストーリーにこうある。「ブライアン・リマは子どものころのアイドルのひとりでした。その人が僕に『ラグビーへ戻ってこい』と言ったんだ。サモア代表に入れるかもしれない、と」(同前)。

 少年期には4人の兄と川べりのラグビーに夢中だった。正式なボールはなかった。「買うことはできず、もらうこともありませんでした」(同)。そこでサモアに暮らす庶民の伝統の方法を踏襲する。「ペプシのペットボトル」にバナナの葉を詰めて楕円球の代替とするのだ。ロンドンの恵まれたクラブの一員の背後に「牧歌の1924年」がにわかに現れた。

 クラブでラグビーを続けつつ、バスケットボールに傾注するも、国代表くらいでは生計を立てるには至らない。前掲メディアの行き届いた取材では、ひととき「債権回収」の仕事にも就いたそうだ。そこにいるのは弱い立場の年配者ばかり。心根の優しい若者に最適の職種ではなかった。

 そんなころにバスより連れ降ろされた。23歳の7月某日。人生は変わった。

 新しく編成されたプロ、マヌマ・サモアにまず呼ばれ、ほどなく、イングランドのクラブと縁の深い、セイララ・マプスア(前・男子サモア代表監督)の導きで、リッチな異国へ渡る。

 本年7月。代表主将に指名された。ヘッドコーチのマホンリ・シュワルガーは会見でキャプテンの条件のひとつを解説している。

「選手にのみならず、人々に尊敬されていること」(サモア・オブザーバー紙)。人々とは、広く世界に散る同胞であり、国民であり、なにより故郷の村の老若男女である。

 よく粘る米国代表イーグルスをなんとか退けて3位。終了直後のフラッシュの主将インタビューの冒頭をサモアの言語で通した。いいぞ。聞き取れなくとも思った。滑らかとはいえぬ英語では若いチームについて一言。

「わたしたちは未来へたどり着ける」

 自身の軌跡が常套句に説得力を与えた。 

 サモアの躍進はRWCの歩みと重なる。1987年の第1回大会(ニュージーランドとオーストラリアの共同開催)の出場国は推薦で決まった。軽視され、そこには招かれなかった。

 ところが、フィジーの開幕直前の政情不安で繰り上がる可能性が浮上する。いまとなっては想像しづらいのだが、主催者は、西サモアの代表エンブレムのデザインや字体がわからなかった。これではプログラムなど印刷物の制作もままならない。

 どうする。こうした。ある関係者がニュージーランドの雑誌を持ってきた。そこに西サモアのレプリカの姿の少年が写っていた。なんとか、その男の子と連絡をつける。「あのシャツをゆずってもらえないだろうか」。そして例の殺し文句。「オールブラックスのジャージィと引き換えに」。めでたくディールは成立する。フィジーの辞退は避けられたので、もはや幻のエピソードかもしれない。

 4年後の第2回大会、西サモアはウェールズを敵地で打ち負かした。不滅の16-13。同大会優勝のオーストラリアにも3-9の善戦、対アルゼンチンは35-12の圧勝を遂げる。勢いでなく実力ゆえの結果だった。いきなり世に出て、たちまち強国の評価をつかんだ。

 準々決勝のスコットランドには6-28と届かなかった。終了後、手を振りフィールドのまわりを走り、観客への感謝の意味をこめてシバタウを舞った。現場にいて、割れるほどの拍手の音はいまだに鮮烈だ。

RWC2023にも出場し、日本代表戦とも戦った。その試合ではLOだった。(撮影/松本かおり)

 その数日前。エジンバラの小さなホテルのロビー。本コラム筆者は現地の新聞に目を落としていた。

「西サモアより記者がやってくる」

 見出しの隣に当人の肖像フォトが掲載されている。想像以上の快進撃に急ぎ本国のメディアより派遣されるという内容である。

 そこに。精悍な若者が大きな荷を携えてチェックインなのだろうフロントへ近づいた。手にしているページの写真と同じ顔だった。あの瞬間の気持ちを上手に表現できない。ただ「この人と同業者なのは悪くない」と思った。

 以来、現在までサモアはこれでもかと国際ラグビーに人材を供給し続ける。なのに本国の物的な資源はいっこうに豊かにならない。11月の北半球ツアーも「破産する最初の小国協会となる恥辱を避けるため」にキャンセルされた。

 人口約22万のうちの「5000人ほど」(RNZ)がラグビーのプレーヤーとされる。国技に位置づけられても財政の規模はあまりにささやかだ。

 国内に不正を遠ざける賢者の登場を。国外からは公正な扱いを。サモア系の才能の恩恵に浴してばかりの大国は具体的な行動で恩を返さなくてはならない。「裸足」や「ペットボトルのボール」を異国趣味の逸話ととらえる態度は正しいのか。ここについても考えなくてはなるまい。
 
 それでも。テオ・マクファーランドの成功は救いだ。この物語がないよりはあったほうがよい。富があってのよきラグビー。つましくとも育まれる個の跳躍力。どちらもスポーツの実相なのである。


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