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【南アフリカコラム】オールブラックス、最強の好敵手にして無二の盟友。
1996年、オールブラックスの南アフリカ遠征の初戦。黒衣が23-19で勝った。(Getty Images)

【南アフリカコラム】オールブラックス、最強の好敵手にして無二の盟友。

杉谷健一郎

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◆黒衣の悲願。

 1996年8月、プレトリアのロフタス・ヴァースフェルド・スタジアムで行われたスプリングボックスとオールブラックスのテストシリーズ第3戦。オールブラックスは33-26で辛勝し、テストシリーズの勝ち越し(2勝1敗)を決めた。
 勝利の瞬間、オールブラックスのレジェンド、名将フィッツ・パトリックはグラウンドにひれ伏し、地面を何度も叩き、仲間に促されてもしばらく起き上がれなかった。

 なぜオールブラックスの主将たるものが、ワールドカップの優勝でもないのに、そこまでして勝利の歓喜に放心状態になったのか?

 実はその勝利が、1921年に両国の交流が始まり75年、オールブラックスが常に追い求めていた、南アフリカの地、アウェイでのテストシリーズの勝ち越しを決めるものだったからである。

 つまり、オールブラックスはそれまでスプリングボックスとの長い対戦の歴史の中で、アウェイではテストシリーズを勝ち越したことがなく、唯一の汚点とされていた。
 当時、実力的には世界一と評されていたオールブラックスがそのことを証明するには、南アフリカでのテストシリーズの勝ち越しは達成しなければならない条件の1つだったのである。

 両国間ではこのオールブラックスの南アフリカ遠征を最後に、1、2か月遠征先に滞在して3、4試合テストマッチをおこなうというラグビーならではの長期遠征の実施が難しくなった。
 その主な理由は、1995年にラグビーのプロ化が容認され、スーパー12(※現在のスーパーラグビー)やトライ・ネイションズ(※現在のザ・ラグビー・チャンピオンシップ)が始まり年間のスケジュールがタイトになったからである。

 最近になりラグビーの伝統である長期遠征を復活すべきという声は高まっている。
 実際、両国のラグビー協会で復活に向けた話し合いは開始されている。しかし、実現には選手と所属チームの契約やスケジュールの調整等、クリアしなければならない課題は多い。

 トライネーションズ発足以降、両チームの対戦はホーム&アウェイで年間2試合(※2006年、2008~10年は3試合)、ワールドカップ開催の年には1試合のみというケースが多い。
 したがって、オールブラックスにとっては、この1996年の遠征はアウェイで勝ち越すことのできる最後のチャンスとされていた。

◆インビンシブルになるために。

 この事例からも分かるように“インビンシブル(無敵)”と呼ばれる常勝軍団オールブラックスであるが、かつてスプリングボックスを追いかける立場にあった。

 実際、歴史を紐解くと、南アフリカが国際ラグビーに復帰した1992年以前の戦績はスプリングボックス20勝、オールブラックス15勝、ドローが2でスプリングボックスは世界で唯一“オールブラックスより強い”チームだった。

 そして、翌1997年の第2回トライネーションズ第1戦におけるオールブラックスの勝利により、両国のテストマッチの通算戦績でついに勝ち越すことができた。オールブラックスはスプリンボックスとのテストマッチに勝ち越すのに76年も掛かったことになる。

1996年、シリーズ勝ち越しを決めた試合の直後のショーン・フィッツパトリック主将(Getty Images)

◆最強のライバルにして無二の盟友。

 スプリングボックスとオールブラックス、お互いが最強の好敵手(ライバル)として認め合っている。
 それぞれのファンも勝てばお祭り騒ぎ、負けるとこの世の終わりのような沈滞ムードに陥る。世界中のラグビーファンにとっても数あるテストマッチの中で、この「緑金VS黒」の対戦は最も注目度が高く、一番観たい組み合わせであることは間違いない。

 スプリングボックスとオールブラックス、ピッチでは激しいぶつかり合いを繰り広げる最強の敵となるが、最も結びつきの強い盟友であるともいえる。

 1960年代以降、南アフリカのアパルトヘイト政策に対する制裁として、世界各国がラグビーを含むスポーツ交流のボイコットを実行した。

 国際オリンピック委員会は1964年の東京大会から28年間、1992年のバルセロナ大会まで南アフリカのオリンピック参加を許さなかった。

 大国の思惑が錯綜し、常に意見が分かれる国連においても、1972年の総会で“スポーツに関するアパルトヘイト”の特別決議を採択され、南アフリカを名指しで非難した。国連でさえ加盟国に対して南アフリカとのスポーツ交流の中断を奨励した。

 ニュージーランド国内においては南アフリカとのラグビー交流は賛否両論だった。
 もともと両国の交流が始まった当初から、南アフリカからニュージーランドに対してマオリ系の選手をメンバーから除外し白人だけのオールブラックスを構成してほしいという通達が常にあった。これはニュージーランドラグビー、そしてニュージーランド国民にとっても受け入れられるものではなかった。
 特に1981年、スプリングボックスのニュージーランド遠征では、ツアー容認派と反対派が対立し国が二分した。

 しかし、これだけ反アパルトヘイト運動が世界中で激化した際でも、ニュージーランドは最後まで南アフリカに手を差し伸べた。オールブラックスを遠征させ、またスプリングボックスを自国へ受け入れた。そのために、現在は外交の優等生であるニュージーランドは世界中から非難を浴びた。
 それでもギリギリのタイミングまでニュージーランドは2国間のラグビー交流を継続した。

 当時のニュージーランド政府は「政治とスポーツは分離すべき」という傾向が強かったことはある。この場では当時のニュージーランド政府の判断の是非を問うことはしないが、世界中から非難されることは分かっていて、なぜオールブラックスはスプリングボックスと戦い続けたのか?

 回答としては単純にスプリングボックスと何としても試合がしたかったのである。
 例えば前述の1981年、スプリングボックスのニュージーランド遠征受け入れの賛否については、その前年のニュージーランドラグビー協会総会において当時、26あったニュージーランドの地域協会は満場一致で賛成票を投じた。

 また当時のオールブラックスの選手のインタビューからもスプリングボックスとのテストマッチは彼らにとり特別な存在であり、自身の代表キャリアの中でもハイライトとして捉えていた節が伺える。

 オールブラックスというチームとしても、現在はブレディスローカップで鎬を削るオーストラリア代表ワラビーズが当時はまだ強化が進んでいなかったため、真剣勝負ができる相手はスプリングボックスだけだった。

 そして、オールブラックスが“インビンシブル”の称号を獲得するためには世界で唯一負け越しているスプリングボックスに勝ち越すことが必須条件でもあった。

 南アフリカもこの厳しく世界から孤立した時期にニュージーランドから受けた温情には感謝しており、両国間の関係はさらに深化した。
 アパルトヘイトが終焉を迎え、1992年に南アフリカラグビーが国際ラグビーへの復帰を赦されてすぐに遠征したのもオールブラックスであった。その後、この友好関係は現在のスーパーラグビー(※南アフリカは2020年に撤退)やザ・ラグビーチャンピオンシップの設立につながる。

◆新時代の戦い。

 しかし、1992年の南アフリカ国際ラグビー復帰以降、現在に至るまでの対戦成績では、スプリングボックスの20勝47敗2分けと弱体化が目立ち、逆にオールブラックスが圧倒的な強さを築いたことが理解できる。

 時代が変わり試合数が増えたということもあるが、1992年以前のスプリングボックスが20勝15敗と勝ち越していた状況から32年が経った現在、トータルでは40勝62敗4分とオールブラックスに完全に形勢逆転された。スーパーラグビーに関してもニュージーランドのチームが優勝をほぼ独占している。

 ただし最近になりスプリングボックスも復活の兆しが見えてきた。2018年のラッシー・エラスムスのHC就任以降は5勝5敗1分けのまったくのイーブンとなっている。もちろん最後の1勝は昨年のフランスワールドカップ決勝の勝利である。
 ワールドカップに関しては4回エリスカップを掲げたスプリングボックスに対して、3回のオールブラックスは再び追う立場になっている。

 今週末からザ・ラグビー・チャンピオンシップの“メーンイベント”であるスプリングボックス×オールブラックス2連戦が南アフリカで始まる。過去の戦績は横に置いておいて、昨今の状況からは両チームとも何としても勝ちたいテストシリーズになる。
 熱戦になることは間違いない。週末が待ち遠しい。

【プロフィール】
杉谷健一郎/すぎや・けんいちろう
1967年、大阪府生まれ。コンサルタントとして世界50か国以上でプロジェクト・マネジメントに従事する。高校より本格的にラグビーを始め、大学、社会人リーグまで続けた。オーストラリアとイングランドのクラブチームでの競技経験もあり、海外ラグビーには深い知見がある。英国インペリアルカレッジロンドン大学院経営学修士(MBA)修了。英国ロンドン大学院アジア・アフリカ研究所開発学修士課程修了

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