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【你好! 台湾橄欖球③】サポート。そして、つなぐ。山本紅樹
1979年10月22日生まれの45歳。4兄弟の三男で、長男は大樹(だいじゅ)さん、次男は青樹(せいじゅ)さん、四男は新樹(しんじゅ)さん。相撲の二男以外は伏見工ラグビー部出身で、長男、四男ともCTB。(撮影/松本かおり)

【你好! 台湾橄欖球③】サポート。そして、つなぐ。山本紅樹

田村一博

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 美しい名前を記憶している人もいるかもしれない。
 紅樹と書いて「こうじゅ」。1997年度の全国高校ラグビー大会、花園の決勝戦でトライを挙げた伏見工(現・京都工学院)のウイングが山本紅樹だった。
 その試合は國學院久我山に29-33と敗れるも、濃密な青春時代を過ごした。

 27年前に花園の芝の上を駆けていた人は45歳となり、いま、台北(台湾)に暮らしている。
 32歳の時に南の島に降り立った。現在は新北市にある淡江高校ラグビー部のアシスタントコーチを務める。台湾ラグビー協会の強化委員にも名を連ね、今年の夏まではU19代表の指導にもあたっていた。

 ラグビー界において、日本と台湾の架け橋になっている。
 直近では12月28日、29日に台北で開催予定の、拓大、天理大、関西大、名古屋大も参加する『2024年 台北元坤盃國際大專七人制橄欖球邀請賽』(元坤杯7人制国際大学ラグビー招待大会)での海外参加チームの取りまとめ(交渉、サポートなど)を任されている。

 台北で開催された先のアジアラグビーU19チャンピオンシップ(12月18日〜28日)では、日本のチームリエゾンを務めた。

 台湾に日本のプロコーチやプロ選手、元選手を呼んで講習会を実施したこともある。よりラグビー環境の良いところで自分を高めたい台湾の高校生と、日本の大学の橋渡しも。台湾の国体に出場する、新北市の高校7人制チームの日本遠征もサポートした。
 両国のラグビーマンたちが笑顔になるのを見るのが好きだ。

 この冬、後輩たちが久しぶりに花園の芝を踏むことを喜ぶ山本さんは、高校卒業後、大阪経済大に進学して1年時から活躍。5年間在学した後、ニュージーランド(以下、NZ)に渡った。
 オークランドのクラブ(ワイテマタシティー)でプレーし、帰国後にプロ選手になることを頭に描いていた。しかし大怪我(膝の靱帯断裂)を負って帰国。トライアル等を受けられずプロ選手になることを断念。人生の歩み方を変えた。

 アルバイトをしながらクラブラグビーで楕円球を追っていた。やがて登録していた派遣会社から半導体の製造装置を作る大手企業、東京エレクトロンを紹介されて契約社員として働く。
 3年働いたところで正社員として中途採用されたのは、人事部の実力者にラグビー経験者(啓光学園OB)がおり、信頼を寄せてくれたこともあった。

 同社で働いていた32歳の時に台湾駐在となる。NZでラグビーをしていた話が事業部長に伝わり、「英語を話せるのか。それなら」と決まった。
 半導体工場に製造装置を設置、メンテナンスをする技術者、現場責任者として活躍した。仕事に没頭する30代を過ごした。

 ラグビーは、台湾に住む日本人ら(在住者、駐在員など)とともにクラブチームで楽しんでいた。
 台北市内の日本人が集う歓楽街、林森北路にちなんでファイブウッズ(林と森で木が5つ)と名付けられたクラブに所属した。

 駐在先で仲間たちとラグビーを楽しむビジネスマンが、あらためて楕円球界にどっぷり浸かることになったのは、2019年の日本開催のラグビーワールドカップ(以下、W杯)がきっかけだった。

 パスが繋がった。
 山本さんのいとこにリオ五輪にボランティアスタッフとして関わった人がいる。東京五輪へ向け、何か手伝ってほしいと声がかかった。
 しかし、道はそれた。いとこの席の近くに座っていたラグビー関係者が、東京五輪の前に、先に開催されるW杯をサポートしてほしいとなった。チームリエゾンを統括するセクションのボスと会った。同じ京都で同じ学年でラグビーマン。「あの山本紅樹?」となり、決まった。

 2019年の春、会社から日本への帰任辞令が出ていたが、W杯に関わりたかったから休職願いを出して(無給)、ウエールズ代表のサポートをした。
 チームスタッフは毎朝、挨拶代わりに「アー・ユー・リビング・ザ・ドリーム?」と声をかけてくれた。夢のような時間の中で、大切なことに気づいた。

 ラグビーで生きたい。
 そう決断するや、W杯終了後、会社に意思を伝えた。「辞めることから始めよう」と思い切った。
 そうしないと、次の一歩が踏み出せないと考えた。

 会社に引き止めてもらったことに感謝する。「キーポストを用意していたのに」と言ってくれた。「他地域で苦戦している駐在員の悩みを聞いてあげてほしい」とも。
 一方で決断を尊重してくれた。「(踏み出す勇気を)わかる気がする」と。

中国語と英語を話し、人との距離を近くする。(撮影/松本かおり)


 仕事ぶりは高く評価されていた。中国語を覚え、技術者、現場責任者としてクライアントと近かった。相手がいま何を欲しているか分かるから、それを開発者や営業担当に伝え、売り上げをあげていたからだ。

 人と違う道を歩む中で、対人スキルとサバイバル感覚が養われた。それが職歴や実績を支える。机上でないところで学んだことを、自身の厚みに変えて生きる。

「高校時代は人に使われるポジションでしたが、大学時代は(高校時代に実績のある)自分が全体のことを考え、チームの強み、弱みを把握し、仲間にとってどのポジションが合っているかなどを考えた。そういう経験が社会に出て役立った気がします」

 歩んできた道すべてが、その後の自分を支えてくれている。
 伏見工時代の記憶も当然濃くて、未熟だった頃が恥ずかしくて懐かしい。

 入学した年、1年間をどれだけ長く感じたか。練習は長い。先輩からの圧は強い。その中で当時の山口良治監督は、ウイングだった自分に対し、夏に「フランカーをやりなさい。人への強さが足りない(から学べ)」と言った。
 3年生になると本当に元のポジションに戻してくれた。強さを増した自分がいた。

 そんなにお世話になったのに、3年時、タバコを吸って停学になった。
 それを機に「ラグビーを辞めます」と伝えると、監督は「お前はこれまで、いろんなことから逃げてきた。ここで戦わないでどうする。一緒にやってきた仲間がいるのに見捨てるのか」と諭した。
 2週間考え、頭を丸めて「もう一度やらせてください」と伝えると、その2日後には重要な試合に出してくれた。結果、高校日本代表候補となる。

 人として大事なことは、すべてラグビーから学んだ。
 40歳で会社を辞め、体ひとつになった時、「好きなことをしよう。人のためになることをしたい」と、生き方を決めた。永住権を取得していたこともあり、台湾ラグビー界のために動く決心をした。

 所属しているファイブウッズクラブが淡江高校と一緒に練習したことをきっかけに、その指導法が他と違っておもしろいと声をかけられ、同校の指導をするようになった。

 決してそれだけで生活していけるほどの額ではないが、有給でのアシスタントコーチに就任。その責任を感じ、日本ラグビー協会のA級コーチのライセンスも取得。アスリートフ―ドマイスターの資格も取った。

 台湾ラグビーの熱に触れ、その火をもっと大きく燃え上がらせたいと願う。
 例えば日本の大学への留学を、もっと盛んにできないか。「ラグビーの環境も整っています。台湾人は日本のことが好きで、日台間でも深い関係がある。日本語をしっかり学ぶだけでも、将来に繋がります」。

 年齢を重ねた台湾の人の中には、多くのラグビーファンがいる。『惑ラグビー』も盛ん。社会にはラグビーを愛する実力者がいるはずなのに、その存在があまり見えてこない。
 そんな現状を変えていく一助になれたらと思う。年末の国際大学7人制大会の主催者、杜元坤の行動力を脇でサポートするのも、台湾でのラグビーのパワーが増すことを願うからだ。

 ウイングとしてラストパスをもらい、トライをするのが役目だった男は、起伏ある道を歩み働く幅が広がった。
 スクラムハーフのようにつなぐ役に徹し、スタンドオフやセンターのように周囲を生かす。フォワードのごとく、見えないところで人を支える。そんな立場にやり甲斐を感じる人になっている。


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