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ノビーの歩いた道。その素顔。
JAPAN XVとマオリ・オールブラックス、そしてスタンドを埋めたファンが黙祷を捧げた。(撮影/松本かおり)

ノビーの歩いた道。その素顔。

田村一博

 キックオフには少しはやい時間にホイッスルの音が響いた。
 6月28日、秩父宮ラグビー場でのことだ。JAPAN XV対マオリ・オールブラックスの試合前だった。

 同日、4月3日に逝去された眞下昇(ましも・のぼる)さんの追悼セレモニーがおこなわれた。
 キックオフ前、スタジアムの大型ビジョンには86歳で亡くなった故人がトップレフリーとして名勝負で笛を吹いた頃の勇姿や、日本ラグビー協会の要職に就いていた頃の映像が流された。
 そして、ナショナルアンセムの前には両チームの選手、スタンドを埋めた観客から黙祷が捧げられた。

 1938年12月6日、東京・千代田区生まれ。群馬県立高崎高校でラグビーを始め、東京教育大でもプレーを続ける。SOやCTBで活躍した。
 眞下さんの存在はオールドファンにとっては、雪の早明戦(1987年)で笛を吹くなど、国内最高峰の試合をいくつも担当したレフリー時代の記憶が強いだろう。

 ホイッスルをポケットにしまった後は、関東ラグビー協会や日本ラグビー協会の理事を経て、2002年には日本ラグビー協会の専務理事に就任した。ジャパンラグビー トップリーグの初代チェアマンも務めた。
 日本ラグビー協会の副会長になったのが2005年。アジア協会やワールドラグビーの理事として、国境を超えてラグビーの発展に尽くした。

 多くの足跡の中で日本のラグビーファンを最も笑顔にした功績は、ラグビーワールドカップ2019日本招致委員会委員長を務め、大会開催を現実のものとしたことだ。
 楕円球界最大のイベントを、ラグビー大国や強国、伝統国以外で開催するために、世界のキーマンたちとの距離を近くし、絆を太く、信頼し合う関係性を作ったからこその大仕事だった。

2019年当時の眞下昇さん。ラグビーワールドカップ2019組織委員会エグゼクティブアドバイザーを務めた。(撮影/松本かおり)


 今回の訃報に触れてかつてワールドラグビーの会長を務めていたビル・ボーモント氏は「ラグビー界において広く『ノビー』の愛称で親しまれた彼は、運営者の枠をはるかに超え、ラグビーが国際的に発展していく中で先見の明を持ち、労をいとわず(ラグビーワールドカップ日本開催の)提唱を続けた真のパイオニアでした」とリスペクトしている。

「ノビーのレガシーは世界のラグビーシーンに、日本やアジアの存在だけでなく、彼がその人情と知恵と情熱をもって培った強い関係性を刻み残してくれました」

 2022年秋の叙勲における旭日小紋章受賞など、眞下さんは周囲と力を合わせて物事を成し遂げる人だった。
 親分肌、面倒見のいい性格を周囲の人は知っていた。

 例えば、現在日本ラグビー協会の専務理事を務める岩渕健輔氏は、「楽しい想い出ばかり残っています」と話す。
 世界のあちこちで「おい、メシに行くぞ」と声をかけられ、何度もテーブルを囲んだ。

「眞下さんはひとりで世界のいろんなところに足を運んでいらっしゃいました。国内でも旅先でも、会えばいつも、メシ行くぞ、と。それで、テーブルにのらないくらいたくさん注文するんです。豪快でした」

 レフリー時代に「いちばんスローフォワードを取られたのが僕でした」と言う岩渕氏は、「眞下さんが遅いからそう見えるんですよ」など、ユーモアを交えて楽しく会話しながら食事の時間を過ごしていたそうだ。

「2019年のワールドカップのあとも、ワールドラグビーの人たちは来日するたびに『ノビーとの時間をとってくれ』とリクエストがありました。日本ラグビーの顔として、世界とのつながりを大事にされた方でした」

 人情味あふれる人柄は、オフィシャルではないところからも聞こえてきた。
 ラグビーマンで画家。2020年4月23日に71歳で逝去された岡部文明さんの奥様、範子さんから聞いた話がある。

 岡部さんは福岡工業高校2年時に岐阜国体に出場した際、スクラム練習時に四肢に障害を負う事故にあった。しかし挫けず、リハビリを重ねて画家になる。ピエロを題材に、世の中、人の心の中を映し出す作品を描き続けた。

JAPANXV-マオリ・オールブラックスの試合前に想い出の映像が大型ビジョンで流された。(撮影/松本かおり)


 眞下さんとは1990年代後半に出会ったそうだ。ラグビーで事故にあった岡部さんのことを日本ラグビー協会は当時から気にかけ、専務理事が変わってもバトンは渡され、関係は続く。
 前任者から岡部さんを紹介された眞下さんは、ラグビー協会の人間としてだけでなく、友人、あるいはラグビー仲間として接した。人生の最後までの付き合いだった。

 岡部さんが東京に行けば必ず時間を取り、自分が福岡に向かった時にも必ずご自宅などを訪ねたり、食事に出かけたそうだ。公務もプライベートも関係なかった。
 家族ぐるみの付き合いだった。

 2011年のニュージーランドでのワールドカップの際、岡部さんはウェリントン郊外のポリルアで個展を開いた。作品の運搬には多額の経費が必要だった。「その手配も眞下さんがすべて引き受けてくださいました」と範子さんは回想し、あらためて感謝する。

「いつも(夫と)ふたりで、眞下さんはレフリーになるために生まれてきたみたいだね、と話していました。すべての人を平等に見て、さりげなく正しい方に導いてくれるので」

 何年後かに再びワールドカップがこの国に来た時、ノビーの名は、また多くの人に語られるだろう。






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