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忘れられない嘘は、ありますか?
わたしが過去についた悲しい嘘を、もう10年以上前のことなので時効と思ってここで懺悔する。
私は新卒から14年間、ラグビー選手をしながら広告代理店で働いていた。入社1年目、灰色で梅雨空の時期だった。研修を終えたばかりで、よちよちと独り立ちをしてすぐのこと。市場調査の一環として、都内のウェディング会社のパンフレットをとにかく集めるべし、というミッションを与えられた。蒸し暑い東京の街を山手線や銀座線を乗り継いで、アルデンテみたいな名前の横文字のお洒落な式場を次から次へと渡り歩いた。
まだ20代そこそこのうら若き中村知春は、先輩に出された指令に全力で応えたいという情熱に溢れていた。スーツに黒髪、そして拭えない”芋”感を漂わせ、週末のラグビー合宿の泥を爪の中に残したまま、銀座、青山、松濤あたりの式場にひとりで乗り込んでいった。

タイトルを付けるとすれば、”THE BACHIGAI -場違い- ”である。
まぁでも、当時の鬼のサクラセブンズ合宿に比べれば、ウェディング会社に丸腰(独り身の身分)で飛び込むことなどなんともなかった。数々の地獄の合宿を耐え抜いた中村のハートは、そんなことでは折ることはできない。
お洒落な式場のドアを開ける。白くピカピカな床と花の香り、パイプオルガンのBGM。幸せと希望を凝縮させたような空間で、高級ホテルのドアマンのような綺麗なスタッフが、両手を胸の前で握り満面の笑みで迎えてくださる。
——あの、結婚式のパンフレットが、欲しいんですけど……。
——ようこそお越しくださいました。どうぞこちらにお掛けください。
つい家電量販店でエアコンのパンフレットをもらう感覚で来てしまったが、式場のパンフレットというものはそう簡単にはもらえないらしい。
——パンフレットだけ、いただけないですか?
——申し訳ありません。パンフレットだけはお渡ししてないんです。
(そりゃそうだ)
そんな感じで、成果が得られないまま数箇所を巡った。
そこで中村は考えた。どうやら、ブツを手に入れるには結婚前提の20代女性という体裁でいくほかないようだ。嘘はよくないが、これは仕事なのだ。やっと入った会社の最初に任された仕事なのだ。
……30分後には脂汗を掻きながら、嘘を搾り出している自分がいた。
——ウィーン(扉を開ける音)。コンニチハ。
あっ、こんなところで式を挙げられたらいいなぁと思って、立ち寄らせてもらっちゃいました。パンフレットみたいなものって、いただけたりしますか?
——ウェディングをご予定ですか。それは、おめでとうございます。式はいつ頃をお考えですか?
——ありがとうございます(照) し・・・式は来年?あたりかなと、、
——ご予算やイメージはありますか?
——か…彼は、私の自由にしていいよって言ってくれているんです(苦笑)
パンフレット欲しさに、嘘を重ねる自分がいた。嘘が上手くなると同時に心が汚れていく気がしたが、なんだか大人になったように感じた。
脳内には、ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやり切れない」の一節がパイプオルガンで再生される。

いまだにこれが人生でいちばん虚しい嘘だったように思う。
もともとコツを掴むのは早い方である。数件も茶番を演じれば(対応してくださった方、本当にごめんなさい)もう設定にも慣れて、ギフトカタログみたいなパンフレットを次々と手に入れた。
しかし、10件目あたりで、事件は起こる。
新婦と新郎の名前を書かねばならない状況に直面したのだ。
——それではこちらに、新郎様と新婦様のお名前をご記入ください。
結婚前提の設定でいた私だが、新郎となる男性の名前までは準備をしていなかった。マイケル・フェルプスもびっくりするくらいの泳ぐ目と、手汗でしっとりした右手で書いた新郎の名前は、
…………「山本 一男」
あれから15年、私の山本一男さんはいまだに現れないままだ。
あれだけ堂々と嘘をついた報いなのかもしれないと、心の底でずっと思っている。
15年越しの懺悔と、より正直に生きる決意と共に。