logo
【Feel in Argentina/番外編】『バハディータ』を進化させ『ラグビーの声』を体現。カルロス・〝ベコ〟・ビジェガス
リセオ・ミリタール75周年記念誌にあるスクラムの記述はなんと16ページ。(撮影/中矢健太)

【Feel in Argentina/番外編】『バハディータ』を進化させ『ラグビーの声』を体現。カルロス・〝ベコ〟・ビジェガス

中矢健太

 スクラムの戦法「バハディータ(La Bajadita:沈み込み)」を開発、アルゼンチンラグビーの礎を築いたフランシスコ・オカンポのことを前回書いた。

 オカンポがコーチングを志したのは1927年。アルゼンチンに来征したブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズに、アルゼンチン代表や州クラブは2か月の間におこなわれた9戦すべてに大差で敗れた(失点の合計は308点/当時のトライは3点)。それを観客として目の当たりにしたことがきっかけになった。

 伝説的指導者となったオカンポは、晩年にブエノスアイレスの名門クラブSIC(San Isidro Club)の指導をしながら、享年68でこの世を去った。死因は、以前から患っていた心臓の発作だった。

 コーチ不在となったSICは、新たにコーチを招聘しようと試みた。その中で、オカンポが長年に渡って指揮を取っていたリセオ・ミリタール(Liceo Militar:陸軍高等学校)の教え子であり、その影響を最も受けた一人であるカルロス・〝ベコ〟・ビジェガスに目を付けた。

カルロス・〝ベコ〟・ビジェガス。リセオ・ミリタール75周年記念誌より

 ビジェガスは当初、前向きではなかった。なぜなら、オカンポがリセオ・ミリタールからSICのコーチへ就任した1969年、その後任としてリセオ・ミリタールのコーチを務めていた。

 ただ、クラブはグラウンド関連の問題で学校側と対立が生じていた。そこでビジェガスは、リセオ・ミリタールをSICのグラウンドで練習させることで双方のコーチを務め、事態を打開した。一見、強引な話だが、まだ2チームのコーチを務めることが認められていた時代だった。

 ビジェガスがヘッドコーチに就任した1970年から、SICはリーグ4連覇を果たした。現在に至るまで通算27回、国内で2番目に優勝の多いチームとなっている。

 その過程でビジェガスは、オカンポから受け継いだスクラム戦術「バハディータ」を体系的に整理、「エンプヘ・コーディナード(Empuje Coordinado:組織的な押し込み)」として再構築した。スクラムを組む8人が一気に力を解放するためのポイントを下記7点に絞り、理論として確立させた。

【エンプヘ・コーディナード(Empuje Coordinado:組織的な押し込み)】※リセオ・ミリタール75周年記念誌より抜粋

1:背中を真っ直ぐに(Espalda Derecha)
2:頭を上げる(Cabeza Levantada)
3:歯を食いしばる(Dientes Apretados)
4:脚を曲げる(Piernas Flexionadas)
5:完璧なバインド(Perfecto Entrelazamiento)
6:(スパイクの)スタッドの活用(Utilización de los Tapones)
7:集中力(Concentración)

ロベルトさんからいただいたリセオ・ミリタール75周年記念誌。(撮影:中矢健太)


 その後、ビジェガスは1974年からプーマスのコーチに就任した。しかし、SICの選手に偏ったメンバー構成や、フランス代表とのテストマッチでスクラムがうまく機能しなかったことから、1年で解任されてしまう。
 だが1976年、再びプーマスに引き戻したのは、新たにアルゼンチン協会の強化委員長に就任したカルロス・コンテポーミという人物だった。

 2人は現役時代からラグビーを通じた知り合いで、お互いが「ラグビーは教育の手段である」という共通の価値観を持っていた。ビジェガスはコーチ、コンテポーミはディレクターとして役割を全うする過程で、関係はさらに深くなっていった。同僚から友人関係へ、さらにはお互いの家族を含めた付き合いへと発展した。

 コーチとして、ビジェガスは代表のみならず、数え切れないほどのクラブや選抜チームに協力した。必要とする声を聞けば、どこへでも行った。当時、ともにプーマスのコーチを務めたエミリオ・ペラッソは、実子であるジャーナリスト、セバスティアン氏が執筆したビジェガスの伝記に手記を寄せている。

「彼のメッセージは深く、かつ明快で、誰にとっても理解しやすいものだった。ゲームの知識、責任感、そして話すときに滲み出る天性のリーダーシップを持つ彼は偉大なモチベーターであった。 彼は『ラグビーの声』を体現しているようだった」(『Veco Villegas, Pasión por el rugby』CLUB HOUSE)

 そして、ビジェガスは何よりも第3ハーフ(アフターマッチファンクション)を重視した。元フランス代表、ルネ・クラボス(René CRABOS)の言葉「ラグビーは2つのハーフではなく、3つのハーフでプレーされる。試合前の熱狂、試合中の勇気、そして試合後の友情」を引用して語った。

「第3ハーフは、最も重要な時間である。それは戦いの後に、相手やレフェリーと再会する時間だからだ。ゲームを楽しむため、互いに助け合ったことへの感謝の時間なのだ」(LA NACION)

 試合の後、第3ハーフが始まると、彼はいつもバーの中央に座り、誰かと対話し、何よりも相手の話に耳を傾けていたという。それが彼にとって至福の時間だった。

「エンプへ・コーディナード」が世界的に認知されたのは1980年、ウェールズラグビー協会(WRU)の創立100周年を記念して開催された初の国際コーチ・審判サミットだった。
 ニュージーランド、南アフリカ、オーストラリア、フランスに加えて、アルゼンチンからの唯一のゲストがビジェガスだった。当時、アルゼンチンはまだ強豪国と言えるだけの戦績を残せていなかったが、ビジェガスは熱っぽく、詳細な図面やメモを用いて、最後は自身の実演をもって解説した。

 現在、リセオ・ミリタールで理事を務めるロベルト・デ・レオン(Roberto De León)さんは、その様子をビジェガス本人から聞いていた。

「サミットを終えた夜、ビジェガスが部屋にいると、各国のコーチたちが彼を訪ねてきて『あなたのメモを見せてくれないか?』と、多くの質問を受けたそうです。ここから、アルゼンチンのスクラムは世界的に認められるようになりました」

オカンポの実孫、マルコスさん。ブエノスアイレスのショッピングモールにて。現在は選手を引退し、レフェリーとしてラグビーに関わっている。祖父が残したフェアプレーの教えは、常に心の中にある。(撮影:中矢健太)


 しかし、ビジェガスはそれを決して自分だけの手柄とはしなかった。必ず、自身の師としてフランシスコ・オカンポの名前を口にしたという。オカンポの実孫、マルコス(Marcos Ocampo)さんは語った。

「彼にとって『エンプへ・コーディナードはすべて私のアイデアだ』と言うのは、とても簡単だったはずです。しかし、彼は常に祖父のことをみんなに話してくれていました。彼はアルゼンチンラグビーにおいて偉大な人物ですが、自分はオカンポの教え子、そして弟子であると公言していました。

 祖父は生前、SICがリーグチャンピオンになる姿を見られませんでした。それを成し遂げたのはビジェガスです。でも彼は常に、チャンピオンへの種を蒔いたのは私の祖父だと言ってくれていました。だからこそ、祖父は今なお尊敬される存在でいられるのです」

 1988年6月12日、ビジェガスと妻のマリチャは州代表チームの視察のため、ミシオネスというアルゼンチン北東部の州へ飛行機で向かっていた。午前9時16分、2人が搭乗していたアウストラル航空46便は空港への降下を開始したが、霧による視界不良に見舞われた。その直後、機体はユーカリの森に墜落、炎上した。乗客乗員合わせて22名のうち、生存者は誰一人としていなかった。

 実はその前夜、ビジェガス夫妻は偶然にもコンテポーミ家と食事をしていた。そして、お互いの子どもたちについて話したという。

「幼い子どもたちを抱えていたベコ・ビジェガスは、すでに子どもたちが成人していたコンテポーミ夫妻に『うちの子どもたちも大きくなったら、あなたたちの子どものようになってほしい』と語っていた」(LA NACION)

 ふたりには、4人の子どもがいた。事故が起きてから、ビジェガスと関係が深かったコンテポーミは受け入れを申し出た。しかし、すでに同居していた彼らの祖母ベアトリスや、ビジェガスの兄弟によるサポートで、なんとか生活が維持できていた。

現在プーマスの指揮を執るフェリペ・コンテポーミ。(Getty Images)


 1998年に祖母ベアトリスが亡くなると、コンテポーミは再び手を差し伸べた。4人は養子として受け入れられ、引っ越した。コンテポーミ夫妻の間には8人の子どもがいた。そこにビジェガス家の4人が加わって総勢12人、さらに大家族となった。

 コンテポーミの妻であり、そしてビジェガス兄弟たちの母となったマレレは、20年間、アルツハイマー病との闘病の末に亡くなった。その最後まで、実子と養子を区別することなく、同じ愛を与えた。12人の子どもたちは、強い絆で結ばれている。

 コンテポーミ家の7番目、双子の弟の名はフェリペという。プーマスの現ヘッドコーチ、フェリペ・コンテポーミだ。
 2025年の6月20日、ダブリン。彼が率いるプーマスは、かつてオカンポがコーチを志すきっかけとなった大敗の相手、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズから初勝利を挙げた。オカンポからビジェガス、そしてコンテポーミへ。およそ1世紀もの時を跨いで、その系譜は一つの結実を迎えた。

ALL ARTICLES
記事一覧はこちら